第32話

 ところが部屋に行ってみると、いままでとはどこか違った空気が横溢しているのを感じ取った。僕はそれを顔に出さないようにしてみんなに挨拶をする。だが、やはりひとりひとりの返事がどことなくよそよそしく思えた。

「これ、差し入れのウイスキーです。みなさんでどうぞ」

 卓袱台の真ん中にボトルをそっと置いた。

「若いキミがそんな気を遣わなくていいんだよ」

 野田老人がこれまでと同じ表情になっていった。場の空気がきもち和んだ気がした。

「ウイスキーか? 久しぶりだな」

 禿げ頭の井上さんがボトルを手にして、矯めつ眇めつしている。

「さあ、みんな、はじめましょ」

 花木おばさんがいつものようにビールを注ぎはじめる。

 きょうの酒のツマミはカツオの刺身と枝豆、あとはいつものサキイカと柿ピーだ。

 みんなのグラスにビールが行きわたると、旨そうに最初の1杯を飲んだ。

 僕がサキイカを口に入れたとき、井上さんが訊いた。

「お盆だったけど、どうしてた?」

「別になにも……」

「お墓参りは?」

「いえ、お墓は名古屋なので」

「そうかぁ。名古屋は遠いからなぁ」

 井上さんの厭味にも取れる言葉になにか引っかかるものがあった。

「すいません」

 そんなつもりはなかったがつい口から出てしまった。

「なにも謝ることなんかないさ。人それぞれ事情ってもんがあるから」

「はあ」

「ところでいつも気になっていたんだが、キミのその中指にはめている指輪なんだが……」

「これですか?」

 僕は指を広げて井上さんの前に差し出した。

「そう、そう」

 井上さんはまじまじと覗き込む。

「これは弟の形見なんです。これまでは箱に入れてしまってたんですが、ここに引越しするときに出てきたので、嘘か本当かわからないんですが、身につけているといいことがあるって弟がいっていたので、それを信じてはめているんです」

「なに、キミは弟を亡くしているのか?」

 僕は家族のことは話したくなかったのだが、つい成り行きで口から出てしまった。 

「6年前に川で溺れて死んだんです」

「ごめん、つい余計なことを訊いてしまった」

「いえ、いいんです。気にしないでください」

 作り笑顔でいうと、井上さんは悪びれた様子もなく、生姜醤油をたっぷりつけてカツオの刺身を口に放り込んだ。

 僕はそのとき思い出した。気づかれないようにそっと野田老人の部屋を見回す。だが、やはりテレビの姿はなかった。

「ねえ、せっかく彼が持って来てくれたんだから、ウイスキーの封を切らない?」

 花木おばさんは場を繕うかのようにボトルを持ち上げる。

「いいね、正直いうとさっきから飲みたくてしょうがなかったんだ」と井上さん。

「ちょっと待って」

 花木おばさんは新しいグラスを台所から持って来て、手早く水割りを4つ拵えた。

 野田老人は大事なものでも飲むかのようにそっとグラスを舐める。

 禿げ頭の井上さんは目を細めていとおしむようにグラスを傾ける。

 花木おばさんはグラスを覗き込んで人差し指でゆっくりと氷を回した。

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