第25話
夕方になって、仕事先が決まった前祝いの意味で田中食堂に行くことにした。
掃除をすませ、洗面道具をかかえて部屋を出かけようとしたそのとき、やさしくドアが叩かれた。
(ひょっとして……)
ドアを開けると、思ったとおり103号室の花木おばさんが笑顔で立っていた。
「あら、お出かけ?」
花木おばさんは残念そうな顔を見せる。
「ええ、風呂に行こうと……なにか?」
「いえね、ブリのあらを炊いたもんだから、一緒にどうかなと思って」
「野田さんたちは?」
僕はできることなら遠慮したかった。
「あのふたりは1泊2日で温泉旅行。だからきょうはあたしひとりなの。でもお出かけじゃあね。でも、どうせ夕飯食べるんしょ? だったらお風呂から帰るの待っていようか?」
「はあ」
僕はつい気のない返事をしてしまった。
だが、このところ花木おばさんは飲み会のない日には、親切に自分のこしらえた惣菜を届けてくれる。肉じゃが、筑前煮、おでん、煮魚……など。食費が節約できるということは僕にとってこの上ないことだ。それがあって、あまり無下にできないといった事情がある。
「じゃあ、銭湯に行って、すぐもどりますから」
花木おばさんの寂しそうな顔を見たら、そういわざるを得なかった。
1時間たらずでアパートに帰った僕は、部屋にタオルを干したのち103号室に顔を出した。
「待ってたわよ。さあ上がって」
嬉しそうな花木おばさんは、花柄のエプロンを外しながら僕を迎えてくれた。
「これ……」
銭湯の帰りに酒屋で買った焼酎の中ビンを差し出す。
「あんた仕事もないのに、そんな気を遣わなくてもいいのに。でも、わたしはそういうあんたの律儀なとこがスキ」
花木おばさんは焼酎を握りながら僕の背中に手を添えた。
「じつは、バイトが決まったんです」
「そうなの? じゃあ今夜はふたりで前祝いをしましょ。さあそこに坐って」
僕ははじめて入る花木さんの部屋に戸惑いを覚えながらまじまじと見回す。同じ女性ながらあの204号室とは違って、落ち着いた装飾になっていた。壁にかけてある絵も渋くて深みのあるものだった。あのガサツな物言いをする花木さんからは想像がつかなかった。
「花木さん、ご馳走になるのは嬉しいんですが、男を部屋に呼んで変な噂が立ちませんか?」
「ぜんぜん。だって誰が噂を立てるっていうの? 仮に噂が立つんなら、とっくの昔に広まってるわ。それに、わたしは他人がなにをいおうとまったく耳を傾けないの。だって人は自分の都合で話を作りたがるでしょ。そんなのにいちいち付き合ってられないじゃない」
花木おばさんは鍋からおたまを出して味見をしながらいった。
「はい、できたわよ」
大きな皿に山盛りによそったブリのあら煮をテーブルに置いた。できたてだからもうもうと湯気が立ち昇っている。旨そうだ。
「あら煮は冷めてもおいしいけど、できたては柔らかくてもっとおいしいのよ。さあ、ビールで乾杯しよ」
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