第23話
野田老人はそろそろ目蓋が重くなってくるころだ。
僕には気になっていることがひとつある。それをみんなに聞いてみようと思った。
「……あのう、ひとつ訊いてもいいです?」
「なあに」花木さんが顔を向ける。
「じつは、ここに来てまだ間もないこともあるんですが、まだ201と203号室の方とお会いしてないんです。挨拶したいと思うんですがいつも留守なんです。203の方はOLと聞いたんですが、201の人はサラリーマンですか?」
僕が花木さんの顔を向けたとき、花木さんは答えたくないのか視線を鍋に落とした。
「ああ、あの御仁か、あの御仁ならオレたちにもようわからん。ここに住むようになってかれこれ6年になるだろうか、なあお嬢」
「そうね、それくらいにはなるわね」
花木さんはついと立ち上がってトイレに向かった。
「あの御仁だけはようわからん。あまり人前に顔を見せんから、ひょっとしておおっぴらに世間に顔を出せんのかもしれん。まあどっちにしても、あんまりあの御仁には近づかんほうがええかもしれんぞ」
井上さんの表情は、眉間に皺を寄せた険しいものだった。
「そうですか……」
僕は釈然としないまま返事をした。
「さあ、もうちょっと飲もか、おニイちゃん」
トイレからもどった花木さんは大きなお尻を見せながら坐った。
「まだ飲むんですか?」
「なに、わたしと飲むのが嫌なの?」
「そういう意味じゃないんです」
そういいながら野田老人を見ると、すでに白河夜船状態だった。
「だったら飲んだらいいじゃない」
「でもまだきょうは月曜日ですよ」
「何曜日なんて関係ないの。飲みたいときに飲む、それが人生の愉しみ方よ。エッチしたかったらするでしょ? だったらおニイちゃんは曜日でエッチするの?」
「それは……」
「でしょ? ねえ、ねえ今晩わたしとエッチしない?」
「エエッ!」
「おいおい、お嬢、きょうは飲み過ぎじゃないのか? いいかげんにしろよ」
見かねた井上さんが諌める。
「なによ、別にあんたにいってんじゃないの。この若いおニイさんにいってるの。わたしだってまだ捨てたもんじゃないわよ」
花木さんは左の乳房を持ち上げてゆすって見せた。
僕はどうしたらいいのかわからなくなり、井上さんに促されてやっとの思いで自分の部屋にもどった。
鼓動が烈しい。まるで心臓が耳の裏側にまでせり上がってきているようだ。
蛇口をひねって目一杯グラスに水を入れると、一気に飲み干した。少し落ち着くことができた。あれは冗談だったかもしれないが、それにしてもオバさんのパワーには恐れ入ってしまう。
僕は部屋の電気を消し、布団を敷いて横になった。点けたままでいるといつ花木さんがノックするか知れない。
部屋を暗くして目を瞑ると、先ほどの光景が鮮明に浮かび上がってくる。首を横に振ってもこびりついて離れない。僕はしばらくそのままでいることにした。
そういえば、もう長いことそういうことから遠ざかっている。僕だって聖人君子じゃないからやりたくないわけじゃない。でもゲームやスポーツじゃないんだから、あれほどあからさまにいわれては尻込みせざるを得ない。
そんなことを考えているうちにぐるぐると旋回しながらゆっくりと濃緑の深淵に吸い込まれて行った。
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