第16話

「うらやましいですか?」

「うらやましいに決まってるやないの。若いときはなんぼ失敗してもかまへん。だってやり直しがきくも。うちらみたいな年になってもうたらもう失敗できひんでェ」

「そういわれればそうですけど、西野さんだって若いですよ」

「あんた若いのに口が上手やね。女っていうのはそんなふうにいわれると、お世辞とわかってても嬉しいもんや」

 西野ネエさんはタバコをもみ消しながら笑顔でいった。

「西野さんはひょっとして関西出身ですか?」

「そうや。違うゆうても、この言葉やったらどうしょうもあらへんよね。うちは30年ほど前、大阪から東京に出て来たんや。あんた大阪の阿倍野区って知ってる?」

「いえ、大阪のほうはあまり詳しくなくて……すいません」

 僕はつい頭のうしろを右手で押さえていた。

「かめへん、かめへん。あんな、阿倍野区いうてもピンときいへんのはわかってるんや。阿倍野区いうたら、あの陰陽師で有名になった安部清明あべのせいめいが生まれたといわれてるとこや――字はちょっと違ごてるけどな。まあ嘘かほんとか知らんけど、とにかくそういう言い伝えがある土地や」 

「へえっ、それは知りませんでした。勉強になります」

「なにたいそうなこというてんのや、アホちゃうか。それよりあんたもう1枚トースト食べるか?」

「はい、いただきます」

 僕は1食浮いたことで気持が愉しくなってきた。

「ところであんたの生まれはどこ? 東京?」

「いえ、僕は名古屋です。大学受験で東京に来て、それ以来ですから約10年になります」

「そうなんや。ほんなら東京の大学に受かったんねんな」

「はあ、まあ……」

「どこ出てんの? 東大? 慶応?」

「W大学です」

 僕は大学の名前を口にしてから急に自分がはずかしく思えてきた。

 夢を抱き、そこに向かって一生懸命に受験勉強し、それが報われてやっとのことで入学、そして卒業することができたのに、いまではあろうことか職探しに奔走している。

「ええとこ出てんやないの。いまはそうかもしれへんけど、まあまじめに生きてたらきっとええことがあるさかい、それまでがんばりや。こんなうちやけど、かげながら応援するさかい」

「ありがとうございます」

 西野ネエさんの暖かい言葉が胸の奥に沁み入った。

 僕は階段を降りながら、人情味のある人ばかりが住んでいるこのアパートに巡り会えてよかった、とつくづく思った。

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