0249 虹彩

 ドンドンドンドンドン!

「鳥嶋さん!」

 ドンドンドンドンドン!

「起きてください!」

 会社の先輩を起床させる方法として、果たしてそんな起こし方があるだろうか。

 俺は仕方なく部屋の引き戸を引いた。

「お前は借金取りか」

「さっ!行きますよ!」

「へ? どこに?」

 

「今日は『ながびな』の日です」

 

 俺はとりあえず説明を求めた。それによると、流し雛とは北木島に300年以上も続く伝統行事で、旧暦3月3日の満潮時、海岸から紙雛を乗せた小舟を海に流すんだそうだ。流す物は、うつろ舟という小麦藁や和紙・板木で作った小舟に帆を立て、その中に毎月1体ずつ作っておいた12体の紙雛と、前後に船頭を乗せる。これにアサリ寿司や桃の花の小枝などを添えて、浜辺から海へと家族の安全や子供の健やかな成長を願って、昼の満潮に乗せて引き潮とともに「加太へ帰って下さい」と唱えながら流すのだという。

「加太って?」

「和歌山市加太にある淡嶋神社のことですよ」

「まあ、帰りよる前に一度見て行ったらええわぁ」必死な池浪の説明が一通り済んだのを確かめて、薫さんが優しく薦めてくれた。

「そうですね。見てみたいです」

 

 海岸の浜辺には大勢の島の人たちが集まっていた。『流し雛フェスティバル』という看板からも、この行事の大切さが伝わってくる。

「やあ、鳥嶋君じゃな!」

「大河さん、昨日は本当にありがとうございました」

「えれえ大変じゃったのぅ」

「でも親不知親方のお陰ですべてが丸く収まった気がします」

「あの人は、でれぇじなくそじゃけ俺もヒヤヒヤしとったんじゃ。でももうこれで大丈夫じゃけ」

「よかった」

 

 波打ち際から、紙雛が乗せられた小舟が何隻も次々と海に流されて行った。雛を送るのは女性だそうで、女の子からお婆さんまで賑やかに行事は行われていた。ゆらゆらと、寄せては返す波打ちにも、少しずつ小舟は沖に流れて行っていた。

 穏やかな陽の光が、水面をきらきらさせて小舟もその光を反射して光っている。優しい浜風が心も穏やかにさせた。

 

「あー大河さーん」

「こらー大河っ、鳥嶋さんになにかばちゅーたれとったん!」

「おどりゃ~! 何ちゃ~ちゃ~ゆうとんな! 男と男の話じゃ!」

 池浪が俺に何か言いたそうにこっちを見ていた……。

「どうした?」

「蛍ちゃんと、大河さん、今年の6月に結婚するんですって」

「えっ! それはおめでとうございます!」

「ええー、なんや恥ずかしいわぁ」

「ありがとう、鳥嶋君、今度は俺と飲もうや!」

「がっはっはっは、マジかよ。勝てる気がしねえわ」

「かーっかっかっかー」

 

「あー、あの岬の方見てみぃ」蛍さんが言った。

「虹じゃなぁ。あっちはさっきまで雨模様じゃったんかのぅ」大河さんが答える。

 はっきりして綺麗な虹だった。少し眩しくて、目の虹彩がたぶん小さくなったはずだ。

 

「いいんですか?」池浪が小声で何か言ってきた。

「はああん?」

「蛍ちゃん、べっぴんじゃったろ」

「まあな」

「残念でしたね」

「何がだよ」

「鳥嶋さん、虹はレインボーって言うでしょ」

「う、うん」

「語源は、レインは雨、ボウは弓です。ボウガンの弓ですね。雨空にあらわれた弓……ロマンチック」

御伽噺おとぎばなしくせえな」

「ふんっ、残念ながら鳥嶋さんの恋の矢は、蛍ちゃんのハートを射止められませんでしたけどね!きゃはっ」

 

「いつか仕返ししてやる」俺は心にそう決めた瞬間だった。

 

「また来られぇ」

 池浪の家族は少し寂しそうだった。俺もできることならこの、のんびりとした素敵な北木島をもっと観光して楽しみたかった。

「また来るけぇ」

 池浪は手を振ってフェリーに乗り込んだ。

 フェリーが島から離れる。それにつれ島の全体がほとんど山林だったことに、あらためて気付く。秋葉山はあれだろうか……。俺はおおよその方向を見て昨日登ったあの山を思い出していた。……そういえば。

「池浪、どうしてあの時に秋葉山だと予想したん?」

「ああ、匂いがしたんです。焼けた匂い」

「野焼きだろ?」

「いえ、野焼きの匂いじゃなくて、もしくは竹炭かとも思ったんですが、いて言うならバーベキューに近い、食べ物を焼く匂いに近かった……」

「たしかに、山から吹く風の匂いでは……ないか」

 野性的な鼻だ。俺は素直に尊敬した。

 

 東京へ帰る道のりは短くなかった。だが俺たちは、この2日間の目まぐるしく過ぎた時間を忘れるように終始それを睡眠に費やした。

「かぁーーーーっ!東京だぁーーーっ!」俺は品川駅南口を出た長い階段の上に立って両手を上げた!

 

「あああああっ!」

 

 その時、池浪が突然、泣き崩れるようにしゃがみ込んで両手で顔を覆った……。

 島での怖い出来事が今になってよみがえったのかも知れない……。

 無理もない。仮にもあんな山中で異国の大男たちと接触したんだ。俺はさすがに優しく池浪の傍に寄り、声を掛けた……。

「おい池浪、大丈夫か?」

 

 

 

「花粉のばかやろおおおおおおっ!」

 

 

 

「ひゃぁーーーーっはっはっはーーー」

 仕返し完了だ!

 俺はやり遂げた!

 やはり池浪の鼻は野性的だった!

 




 アレルギー性カテゴライズ〈剛編〉

 ―鬼ヶ島―【終】

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