0128 善悪

 この世の中には『善』と『悪』があって、人は『善人』や『悪人』という分けられ方をされることがある。人間は生まれたばかりの赤ん坊では、そのどちらでもないわけなので、もしもこの世を神様が造ったのならば、なぜ『善人』だけの世界にしなかったのだろう。

 という疑問は、紀元4世紀からもうすでにあって、哲学者のアウグスティヌスは次のように説いている。

 それはすなわち、神は理性を持った特別な被造物である『人間』に『自由意志』を与えたからだ、と。その自由意志によって人は『善』も『悪』も自由に行えるというわけだ。そして、もしも『悪』のない世の中が存在するとするならば、それは『人間』の存在しない世界となる。

 



「主文、被告人は無罪」

 



 この言葉を法廷で聞いた瞬間、不意にそのことを思い出した。

 

「そ、そんな……嘘だ」

 下された判決を聞く最後の瞬間まで、池浪は諦めていなかった。その理由わけは、やはり正当防衛という主張を認めたくなかったからだと思う。

 白峰由喜恵さんという人は、この人をよく知る人ほどしたあおぎ見ていた。実際にこれまで積み重ねてこられた実績や活動、もとよりその根幹にある彼女の信念は、心から尊敬できた。それは何も疑いようはなく、徹頭徹尾てっとうてつびこれを信じていたことは、決して間違っていなかった。

 そんな白峰さんが、蒼井果奈に恨みを買って殺されてしまった。それは悪人が善人をあやめたという出来事で、この事件の背景をこれまで地道に調べてきた俺たちにとっては、それが『真実』のはずだった。そして本当に知りたかったのは、白峰由喜恵さんはどんな人で、どんな人生を歩んで来て、そしてその人を殺めた蒼井果奈という女の正体がどんな姿で、この事件の背景にはどんな『心実』が隠されていたのかだった。望みは、それが白日はくじつもとさらされ、正当に悪人が裁かれる。純粋に、ただそれだけだった。

 

 ところが現実は残酷なものだった。

 

 目撃した者がいて、目撃した者が述べた出来事は、起きた事がそのまま見た通りだったのかも知れないが、それこそ発生経緯は極めて疑わしく感じるものだと思うほかない。それは……まるで、そう仕向けられ起こされた仕掛けのようだとも……。しかし私たちが生きるこの世界の司法のもとでは、目撃した者が述べた出来事そのままが真理のジャッジメントを左右する。それは至極当然しごくとうぜん、当たり前のことだった。

 判決の十日前に行われた検察の論告求刑は、一貫して被告人のとった行動は差し迫った危険を避けるものではなく、殺意をもって行われた計画的犯行だ。ましてや仮に危険を避ける行為だとしても、殺傷能力のある道具をもって反撃した過剰防衛だという理由から懲役7年を求刑した。一方の弁護側の最終弁論は、被告人がとった行動が、急迫不正の侵害に対応した防衛の意思からやむを得ずした行為だと、正当防衛を主張し続けた。

 そして、下された判決は『被告人無罪』の審判だった。それは初公判の日からはわずか3週間後の事だった。

 

「私、とても恐ろしいことを考えています」

 この上なく残念だと言わんばかりに肩を落としていた池浪は、法廷から出た先の廊下で立ち止まり、おそおそる俺に言った。

「どんなこと?」

「やはり蒼井果奈はずっと長い間、白峰さんへの恨みを持ち続けていたのではないかと、私は今もなお考えています。昔の友人が証言していた、ある時をさかいにまるで人が変わったというキッカケが、弁護士男性との出会い。そして思い付いたシナリオが『正当防衛』を立証した上での殺害だったのだと」

「そ、そんなこと……」

「蒼井果奈は白峰さんのことをそれはよく知っていたでしょう。ちょっとやそっとの嫌がらせには屈しない、我慢強い人だと。それを重ねれば重ねるほど辛抱された分のストレスは溜められていくだろうと。そしておそらく『鉱石』の趣味も知っていた。白峰さんがもしも本当に怒りに逆上させられたのだとすれば、それは仕組まれた罠だったのかも知れません」

「罠……、少なからずそう言える疑いは残っている……」

「農園に建てられた『土塀』は、まさに蒼井果奈にとって白峰さんを怒らせるためにはってけの起爆剤だと気付かせてしまった。それはやはり、白峰さんが鉱石を大切にしていることを知っていたからなのでしょう」

「いや、でも塀を壊したのは蒼井じゃない」

「壊させたのだとしたら?」

「い、いや、まさか」

「土塀を壊した女性たちは、農園への嫌がらせに自らが計画し実行したと証言していました。でもその嫌がらせの立案は誰がしたのでしょう……、もしかすると立案までもなくヒントを与えただけなのかも知れない……蒼井果奈が」

「そして思惑どおり、白峰さんの大切なものが傷付けられた……」

「そして材料はすべて揃った。あとは自分がわざと襲われて正当防衛を立証させられればいい。それには立証してくれる人間が必要です」

「お、おい……まさか目撃者まで」

「そこまで仕組めたかは判りません。それに仕込んだ人間が、結城さんなのか、眞鍋さんと井上さんなのか、仮にそのどちら共そうで、どちらかが立証してくれると踏んでいたのか……、でも結果的に結城さんは正当防衛の立証には不完全でしたけど」

「どちら共そう、だったとしても……」

「その日の朝、蒼井果奈は何故かわざわざ結城さんの自宅から見える場所を通って菜園へ向かっている。さらにそして、仮にその出発前に蒼井果奈自身が眞鍋さんと井上さんの外出を見届けてから行動していたのだとしたら……」

「さすがに急な展開に、農作業する服装でなかったことも理解できるか……」

「こんな恐ろしいこと、自分で言っていて心疚こころやましいです。でも……」

「でも?」

「鳥嶋さんは判決の後、法廷を去る蒼井果奈を見ましたか?」

「ああ、うつむいて神妙しんみょう面持おももちだった」

「ええ、そのうつむく直前くらいでした……、蒼井果奈は一瞬こちらをあざけり冷笑した目で私をはっきりと見ました。それは例えるならば……」

「えっ……」

「まさに『悪』の目でした」

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