0120 妄想

大森おおもり三次郎みつじろうさんで宜しいでしょうか」

 黒縁眼鏡の検事は粛々しゅくしゅく淡々たんたんと質問する。

「ああ、そうです」

「ご職業は」

「農大の特別研究員です」

 証人尋問に立つ男性は五十代も中ごろだろうか、それにしては剛毛な真っ黒い髪で、ギョロリとした目力めぢからの持ち主だった。

「大森さんは大学でどのような研究を?」

「植物病理学や作物保護学、害虫管理学です」

「なるほど、この事件では被告人の犯行動機に、被害者が意図的に害虫を被告人のエリアに放ったことへの恨み。という理由がありますが、それについてどう思いますか」

「いかにも錯覚からなる空想じみた話だと思いました」

「と言いますと」

「特定のエリアにだけ害虫被害をもたらすなど100%不可能です」

「では何故、被告人の作物だけ被害にったのでしょうか」

「そうですね。そもそも無農薬栽培は、どんな作物でも害虫被害のリスクがあります。例えば付近に農薬がほどこされた畑があれば、害虫はそこから逃げ出し、そことは別の暮らしやすいエリアに移動します。まあ、ハウス栽培や菜園を仕切る塀でもあれば、簡単には流れて来ないでしょうけど……」

 

 やっと何となくわかった気がした。白峰さんが土塀を建てる時、たしか余所よそに迷惑を掛けちゃならんとか何とか……言ってたはずだよな。もしかすると、この理屈に関係あるのかも知れん。

 

「そうして、それは害虫に弱い作物であればあるほど虫に付かれ易くなるのは当然なんですね。つまり、最も弱い物から虫におかされたというだけの話だと考えます」

「それはつまり単なる被告人の被害妄想だったと?」

「害虫を意図的に放ったということ、に関しては私はそう考えます」

「そうですか……、裁判長、以上です」

 剛毛の証人はいささか得意気な表情で法廷を後にした。証人ひとりひとりの尋問を終えるごとに、それまで張り詰めていた法廷内の空気は、そのたび少しだけやわらぐ。その時だけは心が落ち着いた。

 

 ここまでの証人尋問からすると、蒼井果奈が白峰さんに恨みを持ったきっかけは害虫被害で、それは単なる被害妄想だったということが明らかにされてきた……。検察はこの事件が、被告の身勝手な犯行だと結論づけたい……んだろうな。

 

 ――次にゆっくりと証言台に近づく女性は、深くうつむいたまま、うなれていた。証言台に立ってからは、キョロキョロと落ち着きなく、まるで何かにおびえているような、どこか病的といった雰囲気さえ与えてしまう様子だ。

結城ゆうき雅子まさこさんですね」

「はっ! はい!」

 黒縁検事に話し掛けられた証人の女性は、緊張のためなのかも知れないが、極端に驚いた返事をした。検事は心配そうに証人を気に掛ける。

「あっ」

 池浪が何かに反応した。

「唯一の目撃者」

 そうだ、土塀壊しのオバハンが言ってた人だ。蒼井果奈の右腕的存在……だったっけ?

「でも今は家にひきこもりやなかったか?」

 池浪は黙ってうなずく。傍聴席がややざわついた気がした。

「大丈夫ですか?」

 黒縁検事は心配そうに証人にたずねる。

「だ、大丈夫です」

「では結城さん、お住まいはどちらですか」

「は、犯人の家の、き、近所です」

 この人……右腕、じゃなかったのか?少なくとも被告人とは親しかったであったであろう目撃者の結城さんは、蒼井果奈を『犯人』と言った。

「結城さんは事件のあった時、どちらにおられましたか」

「事件を、み、見ました」

「事件現場を目撃した、ということですね」

「はい」

「その時の状況を、詳しく教えてください」

 検事の質問から証人の返答までの沈黙が、ことのほか長く感じた。

「私はが本当は嫌いでした」

 結城さんは、自身の右側に座る被告人席の蒼井果奈を、少しかたげた首をくねらせて見た。その口調は、つい数分前の緊張の気配はもうなくなっていた。

「自分以外の人のことは信用せず、常に周囲には自分に服従させるような仕組みを取って、それはあたかも意図的でないようなフリをしている浅ましい女です。私はこの人がいつか何かやるだろうと、仲間のフリをしていつも近くにおりました」

 咄嗟とっさに裁判長が証言を止めた。

「証人はください。質問の答え以外は話さないでください」

 その注意で一時的に黙った証人は再び顔を上げ、さっきよりも強い口調で話し出した。

「事件の日の朝は少し寒かったので、早く目が覚めました。私の自宅からは私たちの菜園が遠くに見えるので、いつものように窓から眺めました」

「結城さんのご自宅から菜園まではどれくらいの距離ですか」

「畑に誰か居れば、人の姿は見えますので200メートルくらいだと思います」

「その日はいつも通りでしたか?」

「いえ、その日は農道沿いを歩く犯人を見つけました。私はすぐに玄関を出て後を尾行つけました。さっき言った、仲間のフリをしていつも近くにいたのは、きっといつかこの人が何かやるだろうと算段さんだんしていたからなんです……」


 この証言によって、蒼井果奈とその周囲の人々との人間関係が、さらに詳細にあぶり出されたかのように感じた。そして事件の目撃証言は、この後さらに現実味を帯びていった。

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