0119 殺意

 何か不気味だった。何が、という理合りあいはない。まして弁護人が落ち着いていることや、弁護士の夫が傍聴席で大人しくしていることなど、法律のプロなら裁判の席では常識的なことだろう。

 

「証人は宣誓してください」

 裁判長の言葉が、証人尋問の開始を意味した。

 黒縁眼鏡の検事が証人に質問する。

大原おおはら五月さつきさんですね」

「はい、そうです」

「被告人とはどのようなご関係ですか」

「数年前に自然野菜家族で一緒に働いていました」

「今回被害者が殺害された現場の農園ですね」

「あ、はい」

 証言台の斜め後ろの傍聴席から見えるその人は、小柄な声の高い女性だった。証人の女性は『殺害された』という言葉に少しうつむいた。

「当時の被告人の仕事ぶりについて教えてください」

西野にしのさんは頭も良くて、周りの皆や先生からの信頼もありました」

「西野は被告人の旧姓、先生というのは被害者ですね」

「ああ、そうです。すみません」

「そんな被告人に変わった所ははありましたか」

「西野さんは日頃から先生に対抗心を持っていました。いい意味で……向上心というか、先生を超えようという気概きがいというか」

 黒縁検事はうなずく。

「ある年の作付けで、先生と西野さんはキャベツを作付けしました。そもそもキャベツは無農薬栽培がすごく難しいはずなんです。案の定と言っては気の毒ですが、西野さんの品種はほぼ全滅でした。先生の品種が生き残ったのは、西野さんの方が先生より害虫に弱く栽培が難しい品種を選んでいたからだと思います」

「それについて被告人は何か言っていましたか」

「先生が私のエリアに害虫のアオムシをつけたんだと、そうに違いないと猛烈もうれつに怒りを口にしていました」

「被告人はそのことで被害者に恨みを持った?」

「と思います」

「異議あり」

 女弁護士が初めて大きく発し、法廷内に響き渡った声は、よく通る声だった。法廷内の全員が女弁護士に注目した。

「証人の推測です」

「異議を認めます」裁判長は深くうなずいた。

 黒縁検事はことさら『異議あり』は想定内だったかのように、軽やかにきびすを返し「尋問を終わります」と言い、席に戻った。

 

 被告人席の蒼井果奈は、どこかを見ているという訳でもなく、正面のやや下方を眺めているだけのようだった。物憂ものうげな表情は、いかにも被告人として普通すぎるほど平凡であり、何故かまたそれが不気味だった。

 

 一人目の証人が去った後、どこからともなく香るそのキツイ匂いは、二人目の証言台の女性のものだとぐに分かった。何故ならその風貌は、率直に述べるならば水商売風の女性だったからだ。

「お名前は」

横山よこやま麗子れいこです」

「被告人のご友人ですね」

「ええ」

「被告人が農園を辞めた当時のことを教えてください」

「果奈は農業にすべてをけていました。辞める前は自分の人生そのものが農業だと言っていました。なので農園を辞めてしばらくは、生きる気力をなくしたように沈んでいました。それと同時に、自分は白峰さんのせいで奈落の底に突き落とされたんだと、とても恨んでいました」

「どうして奈落の底だとまで?」

「農業の世界は狭いから、どこに行っても自分のことは知られているから、もうこの世界では生きられなくなったと」

「自分の人生のすべてを奪われた恨みはどの程度だったのでしょうか」

「殺してやりたいと言っていました」

「ほお、殺してやりたいと思って犯行に及んだのでしょうか」

「異議あり」

「数年前の友人への発言が、事件の動機を決定的に裏付けられるものではありません」

「認めます。検察はしてください」

「その後、被告人とは?」

「果奈はある日突然、激変したんです。とても素敵な男性に巡り合った、自分の人生をやり直させる方法を教えてくれる人だって、落ち込んでいた時とはまるで違う人間のように雰囲気も変わり、それから私とは連絡も取らなくなりました。しばらく後で結婚したことを噂で聞きました」

「そのことを横山さんはどう思いましたか」

「よほど何か、人生を変えるものをその方と見つけたのだなと思いました」

 女弁護士がその発言に反応しようとした時には、黒縁検事はすでに次の言葉を言い終えるところだった。

「ありがとうございました。これで終わります」

 黒縁検事は二人目の証人尋問を終えた。

 

 まるで違う人間のように……、人生をやり直させる方法。その時に出会った男性、それが今の夫なのか……。

 人生の伴侶に巡り合って一変した? そこまで沈み込んでいた人間が……。

 いくら考えを巡らせたところで、一人の女が出会った男によってどうなったかなど、いくら考えようが、俺にはよしもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る