0118 認否

 法廷内にいる者の中で、俺たちだけが動揺していた。被告人、蒼井果奈の弁護を担当するのは、被告人の夫で弁護士の蒼井秀忠だと思い込んでいた。

 だが、この裁判の弁護人は女性だったのだ。咄嗟とっさに後ろを振り返り、傍聴席のある方向を凝視した池浪の視線の先には、柔道家かラガーマンのようにゴツイ、見覚えのある人物が座っていた。

 ほどなくして最後に入廷した裁判長とふたりの裁判官に合わせて、法廷内の全員が起立し一礼した。

 

 ついに法廷は始まった。まず、裁判長が被告人に最初の質問をする。

「あなたのお名前は?」

「蒼井果奈です」

 被告人の、かぼそい声が静まり返った法廷内に響いた。裁判長は続いて、住所、生年月日、職業を尋ねた。

「夫は妻の弁護、しないんですね」

 俺の耳元で池浪が小さくささやいた。

「うむん……」

 俺の返答は、何故だろうという意味合いを含んでいる。

 ――検察官は、中肉中背の、年はアラフォーといった見た目で、黒縁眼鏡をかけた男性だった。検事はおもむろに下がった黒縁眼鏡を指先で上げ、起訴状に記された事件の起訴内容を読み上げる。

「被告人は、7月27日の朝、被害者である白峰由喜恵さん所有の敷地内にある農園にて、被害者と口論となり、自身の持っていたスコップにて被害者の頭部を殴打し、死亡させたものである。罪名および罪状、傷害致死、刑法第205条」

 黒縁眼鏡の検事が、法壇に向き直る。起訴内容についての罪状認否を、裁判長が被告人に質問した。

「間違いありません」

 蒼井果奈は罪を認めていた。

 

 黒縁検事の冒頭陳述はこうだった。

「被告人は数年前、被害者である白峰由喜恵さんの経営する農園『自然野菜家族』に勤務していました。従業員である被告人と、雇い主である被害者との関係に亀裂が生じたのは、ある出来事がきっかけでした。」

 少しくぐもった声は、わずかに音量を上げ続いた。

「ある年の作付けで、被告人と被害者は当時同じ品種の野菜を栽培していました。どちらも無農薬で難しい栽培でしたが、被告人が作付けしたエリアだけ害虫に侵され、その年、そのエリアの野菜はほぼ死滅してしまったそうです。被告人は当時、被害者を師と仰いでいたそうですが「先生がきっと私のエリアに害虫を放ったのだ」と、その頃あたりから被害者に憎しみを持つようになった。このことは、当時同僚だった人物の証言から判っています」

 

「検察は、当時の蒼井果奈の同僚に話を聞いてるんだな」

「これで白峰会長のお話しが、しっかり理解できたような気がします……」

 

「――それから被告人の野菜の栽培は立て続けに失敗するようになり、農園の損失が膨れるにつれ、周囲からの印象も悪くなり、被告人は農園を辞めざるを得なかった。それから被告人の被害者に対する憎しみは増大し、被告人のその後の人生はそのせいで失墜しっついした、それは被害者のせいだと、当時の友人に話していました」

 

「そんな、はず……」池浪がそうつぶやいたように聞こえた。

 

「そして被告人は、その復讐の時をうかがいつつ、以前自分が勤めていた被害者の農園近くに持ち家を購入、そこでも近所の主婦たちと菜園をやり始めたが、またもや害虫被害が見え出したことで被害者に対する憎しみは限界に達し、自ら農園へ出向き被害者を襲った」

 法廷が一瞬だけ静まり返る。

「だがそれは、すべてまったくの逆恨みで、勤務していた当時に被害者が害虫を放った事実も、今回主婦たちが育てていた菜園にもそのような事実はなく、またそのような方法によって、農作物に被害を与える手段など技術的に不可能なことから、一方的な被告人の思い込みによる身勝手な犯行であったことは明白であります」

 

 検察の冒頭陳述のあいだ、被告の弁護人である女性弁護士は、穏やかな雰囲気で落ち着いて見えた。派手さはない服装や化粧、色白さが、凛として堂々とした聡明な雰囲気を際立たせて見せる。

「弁護人、何かありますか?」

 法壇の中央に位置する裁判長が弁護人にひとことたずねた。

「特にありません」

 一旦席から立った女弁護士は、静かにそう答え、また着席した。

 一瞬、法廷内のすべての人間がその女性弁護人を注目したかのように感じた。俺は、真後まうしろを振り返ることなく、首だけひねりチラリと蒼井秀忠を見た。被告人の夫は胸の前で腕を組んで、静かに目を閉じていた。

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