0116 微笑

 すべて止まったまま、一瞬がとても長い時間のように感じた。

 

「死を、覚悟していたって……、こうなることを予見していたとおっしゃるのですか?!」

「違うんだ。由喜恵はね、医者から余命宣告をされていてね。長くてあと2年だったんだ……」

「そ、そんな……でも」

「由喜恵は、自分の命が残り少ないと知った時、農園のことも養護施設の子どもたちのことも、巣立すだっていった教え子たちもみずから関わったすべてのことを気に掛けて、り残したことを済ませていた。もしかすると蒼井のことは、ずっとどこかに引っ掛かっていたのかも知れないね……」

「だからといって、それは」

「うん。こうならなければ、僕たちはもう少し長く一緒に居られただろうな……でももう、帰って来ないんだ由喜恵は。だから僕はもう……」

 白峰会長はその後の言葉を言わずに沈黙した。そして深く息を吐いて、少し微笑ほほえんだ。俺たちにその微笑ほほえみの本心は知る由もない。

「白峰会長、今日は貴重なお時間を頂きありがとうございました」俺たちは深く頭を下げた。

「僕も君たちと話ができてよかった。ああ、そうそう次の機会に、僕が山白峰やまのしらみねの中を案内するよ」

「やまのしらみね?」

「ああ、僕たち夫婦はそう呼んでたんだ。山のてっぺんにある白いの白峰の家だから『山白峰』だよ。そうそう、君のその手に持ってるのは『孔雀石くじゃくせき』だろう?」

「えっ?! やはりお気付きだったんですね」

 池浪の言葉の意味はわからんが、俺だけには決してお教え頂けなかったあの石のは、孔雀石だそうだ。

「ありがとうございます。『やまのしらみね』楽しみにしています」

 

 病室を後にした俺たちは、何も言わず病院の待合ロビーまで歩み進んだ。俺が先に待合席に腰掛けると、池浪は俺の隣に座って深く息を吸った。沈黙のあいだ、俺は会長が話してくれた心内こころうちを思い返していた。また池浪も何かを考えているようだ。

 ――白峰由喜恵さん。今ならご主人に何と声をかけるのだろう。だがそれを知る術はもうなかった。

「初公判、もうすぐなんです」

 池浪の言葉で俺は我に返った。

「そうか。傍聴席、取れるといいな……。あのな池浪、これ編集長から聞いた話なんだが」

「なんですか?」

「蒼井果奈の夫は弁護士だそうだ」

「…………」

「あの、な」

「妻の弁護……するんでしょうか」

「それはまだわからんって話やった」

「そうですか……」

 

 被告人の弁護を近親者が行うことは、法律でも何も制約がなく可能とされている。裁判官とは違い、依頼者の最善を考える立場の弁護士は公平中立である必要はないからだ。仮に夫が妻の弁護を行うとして、単純に予想できることは『減刑』を求めることだ。そのことを簡単にさせない方法として、ネットへの投稿や仲間への教唆きょうさを蒼井がやったことだと立証ができればと思っていたが、被害者の夫である白峰会長はそれを望んではいない様子だった。

 犯人の夫の写真画像は容易たやすくネット検索で探すことができた。法律事務所のホームページには、所属弁護士の写真がズラリ掲載されている。

 <蒼井あおい秀忠ひでただ

 骨の太そうなゴツイ柔道家かラガーマンといった風貌ふうぼうだった。

 

「鳥嶋さん、帰りに一杯付き合いませんか?」

 池浪の言葉はいきなりだったが、さほど驚かなかった。

「何や、その昭和のサラリーマン風なセリフは……。しかもまだ昼やし」

「まさか、今からじゃないですよ。仕事帰りの夜です……暇ですよね!」

「ですよね!じゃねーわ、言われんでも俺も飲みに行くつもりやったっちゅー話や!」

「さすがです。じゃあ新橋にします」

「だからお前は昭和のサラリーマンか」

 

 俺たちは定時の鐘と共に早々にタイムカードを切り、駅へ向かった。新橋のSL広場はいつも通り人であふれ、いつも通りにぎわっていた。軒並み繁盛している立ち飲み屋はどこも満員御礼状態で、池浪が威風堂々いふうどうどうと奥へ突き進んで入った店も、また美味うまそうな匂いのする立ち飲み屋だった。

「生中2つお願いします」

 俺のドリンクは無条件で『生中』に決定していたらしいが、つゆほども異論はなかった。キンキンに冷えたビールと、席へ運ばれてきた値段の五十倍は味が上回っているであろう料理は、酒の旨さを助長させ、たちまち俺たちの酔いを早めた。

「このマナガツオの西京焼き、最高じゃないですか?」

「池浪、出身どこなん?」

「瀬戸内海の小さな島です」

「ああ、納得やわ」

「なんか引っ掛かりますが」

「気にすんなって」

 帰りの日比谷口の改札で、自分のICカードをタッチさせる直前に、池浪は俺にこう言った。

「初公判も付き合ってくださいね」

 それだけ言い残し、パスケースを振り回しながら去って行く池浪の後ろ姿は、どこか弱々しげでもあり、また逆にこうぜんとしても見えた。

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