0113 意思

「会長さんって?! どなたのことですか?!」

 池浪は驚きを隠せずに、山森さんへ詰め寄った。

「先生のご主人で農園の創設者です」

 ――知らなかった。これは白峰さんご本人がもう割とご年配であったことや、これまで情報としてもたらされなかったこともあって、まったく意識せずにいた。ただもしかすると、極々ごくごく親しい人物からしか聞けなかったことなのかも知れない。だが思い返すとを知っている前提で会話して下さった方も、中にはいたのかも知れないのだと、あらためて思った。

「旦那様がおられたんですね……」

「ええ、そうです。自然野菜家族は、会長と先生お二人で始められました。ただ会長は、私が弟子入りして数か月後に脳梗塞のうこうそくでお倒れになって、今も病床びょうしょうしておられます」

「今も……」

「ですので、先生は長いこと会長のお世話と農園を両立されて来られました。会長はお話はよくされますが、手足が不自由なので先生の葬儀の時も車椅子でいらっしゃいました」

「そうだったんですね……」

「お二人にお子様はいらっしゃらないので、会長のことは私も心配で……」

「そうですか……。山森さんは会長さんの病院へは?」

「今年の春に一度、先生と一緒にお見舞いに行きました。会長は先生に『もう農園を閉めてもいい』と言われました。だけど先生は、もうトマトやピーマンも作付さくつけしちゃったからって……」

「トマト……」

「でもあの時、先生言ってました……、嫌がらせぐらい全然平気だけど、畑を荒らされて野菜を傷つけられるのは凄く苦しいからさくとかへいを建てようかって」

「塀……は建てておられました」

「ええ、知っています。壊されたこと……」

「はい、そうです。あの、山森さん……犯人の女は知っている人物でしたか?」

「いいえ、知らない女です。下の住宅地の人だって聞きました。こんなこと言っては、きっと先生は私を怒るでしょう……でも今、私はその女をこの手で殺してやりたい」

 山森さんは、その目にいっぱいの涙を浮かべながら声を震わせてうったえた。

「先生は私の心のお母さんなんえす……うっ、だもんえっ、お母さんっぅを、ごろされだぁんだ私は、ううっ、ごろじでやりたいぃぃ」

 山森さんの大きな目からポロポロこぼれ落ちた大粒の涙は、怒りと悔しさよりも母親を亡くした娘の寂しさの方が、似つかわしく感じられた。

 山森さんのご主人は中庭から戻り、隣に座ってそっと奥さんの肩をでていた。しばらくして彼女は、小さくこう言った。

「もっと先生に恩返ししたかった……」


「……もう、してるじゃないか」

 岸部施設長が、その彼女の気持ちにそっと答えた。

千里ちさとちゃん、君が今こうして施設ここに届けているものは、ただの野菜なんかじゃない。君の先生おかあさんの意思だ。君はちゃんと先生おかあさんの野菜を受け継いで、あの人がやりたかったことをこうして続けている。それはとても立派な恩返しだろう。由喜恵さんはきっと喜んでいると思うよ」

 ――岸部さんの優しい言葉が彼女の心を先生おかあさんの元へ帰らせてあげたように聞こえた。もっと止まらなくなった彼女の涙に、透き通った初秋風はつあきかぜが窓から吹き込んで、ついでに熱くなってる俺の目頭めがしらもさり気なく冷ましてくれた。

 

 俺たちは山森さんご夫妻と岸部さんにお礼を告げ、池浪は子どもたちに「またね」と言って、施設を後にした。

 

「白峰会長は、私たちの面会を受け入れて下さるでしょうか……」

「そうやな、ここまで俺たちが辿たどって来た道のりを、会長にお話しすることができれば望みはあるんかな」

「奥様を亡くされてまだ間もないことも、ありますよね……」

「やけに弱気やな、お得意のパワーストーンはどうした?」

「ありますけど……これ『ラピスラズリ』って名前。持ってると凄く落ち着くんですよね。まるで『いにしえの時から』をオーケストラでいている時のような高揚感こうようかん、もしくは『真珠の首飾りの少女を』を美術館でながめている時のような幸せを感じます。やはりあのターバンの色はラピスラズリの色なのかしら…」

「…………」

「鳥嶋さんにも分かりますよね?」

「さっぱりわからん」

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