由紀と文隆の再会。京都にて。三月。

文隆: 約束の時刻、蹴上からほど近くに建つホテルのロビーで待っていると、彩愛が手を振って近付いて来た。確かに目立つ容姿だ。

 私は直ぐに彼女の後ろに目をやり、矢張り目立っている筈の由紀の姿を探した。

 これだけの年月が過ぎても、彼女を人混みの中から見出せる自信があった。そもそも、雑誌の記事で小さな写真だったが、彼女の現在を見て居る。だが、それらしい人影は視野に入って来ない。


彩愛: 「御免なさい。ママ、御得意様の祝賀会の準備で手違いが起きちゃってね。遅れるって。夕食には間に合わせるって。食のプロはディナータイムには遅れないわ。未だ準備段階で助かったの。」

 私は自分の動揺を隠す為に一気に捲し立てた。私の声には、明らかに少なからず怒りが混ざってしまった。折角自分が二人の完璧な再会を画策したのに、早くも傷が入って仕舞ったのが残念だった。


文隆: 私はそれを聞いて失望した。

「仕方無いよ。彼女なら御得意様も初めての御客様も、疎かにしないんだろう。」

 私は言ったが、本当に失望しているのだと胸の辺りが訴えて居た。そして、一方で安堵感もあった。未だ自分の気持ちを整える時間的猶予がある。

「祇園にあるお気に入りの料理屋さんに三人で予約を取ってあるんだ。和食で良いだろう?それとも他が良い?」


彩愛: 「和食を頂きたいわ。折角の京都なんですもの。祇園の料理屋さんなんて、何だか素敵。初めて。」

 祇園。ちょっと楽しみ。どんなお店なのかしら。私の歳では、なかなか足を踏み入れられない世界。

 おじいちゃんの話して居た様なお店かしら。

 祇園。胸騒ぎ。


文隆: 私は、期待した通りの反応に満足した。そして、彩愛に店の場所と時間を記したメールを送り、それを由紀に転送する様に言った。


文隆: 私は彩愛を誘って南禅寺へ歩き始めた。他にする事も無い。由紀と募る話を夜までしようと思っていたから、何も考えて居なかった。散歩しながら、次の行動を考える。


彩愛: 私は、送られて来た文隆さんのメールをそのままママに転送した。事務的な、何の飾りもない文字の羅列。私経由では、甘い言葉も照れ臭いのだろう。

「水路閣って、犯人がゲロする場所でしょ?一度、行ってみたかったの。」

 京都には、何回か来ているけど、南禅寺は始めて。


文隆: 「ゲロするって言うか、容疑者が殺人に至る自分の不幸な生い立ちを話し、そしてガイシャに対する怨恨を語るんだ。しかし、それでも、自分は犯人では有り得ないと否定するんだ。そして、自首を勧める、友人でもある刑事に『何か証拠でもあるのか?』と鼻で嘲笑うんだ。」

 私は、思い付くままに刑事物の情景を語り始めた。

しかし、唐突な話題だ。


彩愛: 「ありがちなストーリーね。」

 私は思わず手を叩いて喜んだ。

「でも、それ素敵。人間臭くて。」

私は文隆が始めた物語を膨らませた。

「犯人はね、友人であるその刑事に逮捕されたいのよ。どうせ捕まるなら友人の手柄になりたい。『どうせ逮捕されるなら、お前にワッパを打って貰いたかったんだ』とか言って。」


文隆: 更に私は彩愛の編み出す物語の線に乗っかった。

「『馬鹿野郎。追い詰められて、追い詰められて殺人に及んで仕舞ったお前には未だ同情出来る。だが、俺にワッパを打たせるお前は、絶対に許せない。ただただ只管に憎い。お前ってヤツは、残酷だよ…。一生、死ぬまで恨むぜ。』とかね。」


彩愛: 私は、文隆の熱いセリフを聴いて大笑いした。

「『娑婆に戻って、真っ当な仕事に就いて、お前の前に顔を出せる様になったら、缶ビールの一本でも奢る。だから、待っていてくれ。』ってね。」

 私は、物語を締めた。


彩愛: 「でも、ワッパって、普通、掛けるものよね。打つ、でも良いのかしら。」

 私は、自分で言っておきながら、純粋に疑問に思った。


文隆: 「打つって、僕も彩愛からの流れを汲んで勢いで言っちゃったんだけどね。お縄を打つとか岡引がテレビで言って居るから、ワッパを打つでも良いんだと思う。テレビの刑事物でも、打つって言って居たのもあったと思う。確証は無いけど。」

 私は真剣に答えた。

「各々の警察署によって言い方が違うって事で、解決としよう。」

 案内板の目印に従ってゆっくり歩く我々の視界にその水路閣が入った。


彩愛: 「なんだ、結構ショボいわね。もっと大規模だと勝手に想像していたわ。私的日本三大ガッカリ名所の一つになりそう。」

 私は、いつに無くはしゃいでいた。文隆さんを前に、子供っぽい自分を見せたかったのだろうか。普段は『氷姫』などと揶揄される、常に冷静沈着な印象を与える自分が、ここで理由も無く幼さを見せて仕舞うとは意外だった。

 単に、もう一度、子供に戻って父親との関係を作り直したいと思って居るのだろうか。

誰かに甘えたいのか。


文隆: 「僕も、思ったより規模が小さいとは思ったけど、ガッカリはしなかったな。最初から期待もして居なかったからね。」

 私は、観光名所に対して最初から冷淡な姿勢を取る。老いから来る虚無主義に他ならない。


彩愛: 「因みに、他の日本二大ガッカリ名所は、現時点では石見銀山とはりまや橋ね。はりまや橋は殿堂入りで良いと思うわ。そもそも、皆さん態々ガッカリしに行く所みたいだし。」

 私は訊かれる前に答えた。


文隆: 「石見銀山。酷かったね。僕にとっても、がっかりだったな。」

 私も同意した。

「でも、何と言っても、はりまや橋だね。四国に住む古くからの友人が車で案内してくれたんだけどさ。『ちなみに今、通り過ぎたのがウワサのはりまや橋ね』とか言ってね。」

 二人の笑いが途絶えた後、暫く、無言の時が流れた。どちらも、別にそれを無駄な言葉で埋めようとはしない。ただ、直ぐ横を歩く相手の気配だけで、私には穏やかな充足感があった。

そう気付くと、私は自然に苦笑した。娘を持つとは、こういったことか。

私は水路閣に背を向けると、彩愛も素直に従った。好奇心は既に満たされて居た。

 境内には、興味を惹かれる建物も見当たらない。来た道を引き返すか。


彩愛: 私は、何と無く前を歩く観光客の一団に続いて、角を曲がった。真っ直ぐ進もうとして居た文隆さんの肘を掴んで引っ張った。極自然に、全く考えもせず。

 ちょっと馴れ馴れしい行為だったかしら。彼は、別に気にして居る様子は無いけど、私は、ちょっと後悔した。


文隆: 彼女の手が、私の肘を掴んで引っ張る。ああ、この娘は私に馴染んでいるのだと思うと、充足感があった。


彩愛: 目の前になんとも素敵な案内板が出て居る。

「何気無い、全く主体性を欠いた散歩で、八窓席の特別公開だって。幸運にも程が有る。」


文隆: 彩愛は軽く飛び跳ね、そして、私の同意を得ることもせず南禅寺塔頭金地院の門をさっさと潜ってしまった。

 私は彼女の後を追った。


文隆: 「こう言う日に限って、無意味に派手な靴下なんだよな。」

 私は文句を言いながら靴を脱ぐと、彩愛は笑った。

 ピンクと白の縞模様の、五本指。京都の名刹を巡るのであれば、靴を脱ぐ機会が多い。その位は予測しておくべきだった。


彩愛: 以前から八窓席は覗いて見たいと思って居た。写真や、少なくとも、文字から仕入れた情報に拠れば、人々は口を揃えて素晴らしい空間だと褒め千切っている。だから自分でも実物を見て確かめたかった。

 だがその前に、先ず、文隆のピンクを基調白のボーダーの五本指ソックス。しかも御丁寧に全ての指が違う色。私は思わず声を上げて笑った。こんな物、一体、何処で売って居るのだろう。


文隆: 「遠慮なく笑う娘だ。」

 私は苦笑した。


文隆: 彩愛と私は、先ず、小堀遠州の手に拠る名園の誉れ高い『鶴亀の庭』を見渡す濡縁に通された。そこで適当な頃合いを見計らって出て来る案内係を待つ方式だ。

 中年の御婦人が二人、既に同じ様に庭を眺めていた。見る限り、知り合いでは無く、ただ単に、偶然そこに居合わせた赤の他人同士だろう。

 彩愛は熱心に庭を鑑賞して居たが、正直、私の琴線には何も触れない。それよりも、『布金道場』と揮毫された扁額に私は魂を奪われて居た。


文隆: ガイドの女性が現れた。正に立板に水とばかりに、流れるが如く、長年洗練を重ね吟味され尽くした口上で庭の概要を話した。

 更に彼女は一同に振り返り扁額に注目する様に促した。山岡鉄舟の書であると簡単な説明を始めた。維新の大丈夫は、廃仏毀釈の嵐が荒れ狂った際、ここは寺では無く道場であると知らしめる為『布金道場』と書き、金地院を守ったそうだ。

 とても正気の沙汰とは思えぬ集団ヒステリーに踊らされる呆気者供に対する鉄舟の軽蔑と怒り、そして毅然とした態度が、全て四文字に厳と込められて居る。

 そもそも私には、いかに廃仏毀釈とは言え、己の頭でモノを考えられぬ愚かな群衆共が五山十刹に少なく無い影響力を振るう南禅寺塔頭金地院に、おいそれと手を出せたとは、到底信じられない。


文隆: 一緒に回る御婦人方は、我々をチラチラと見て居る。恐らくはソノ手合いの男とアノ手合いの女だと思ったのだろう。しかし、それにしては上品な娘で、彼女の美しさから、女優だと思ったか。モデルにしては、身体を構成する線がゴツ過ぎる。

 親子にしては、余りにも似て居ない。

 美女と野獣のコンビネーションは、大体において美女とワイルド系美男だ。この場合の野獣と醜男は断じて同義ではない。経験上、外見的に不遇な男は、『優しそうな人』と表現されるのだ。私がそうだ。

 そして、どの様な美女であっても私と結ばれ、彩愛程の見目麗しい娘を成す事など出来ないだろう。但し、彩愛の如何にもスポーツ万能という体格が、私から遺伝したと言えば、言えなくもないが。

 私には、赤の他人が平凡な想像力で自分達の関係を思い描いて居るのが滑稽だった。

 一方、彩愛は、人々の視線に慣れて居るのか、一切を歯牙にも掛けて居ない。


彩愛: 文隆は、何処か文人的素養を匂わせているが、粗野な空気も併せ持っている。態と荒削りな自分を演出しているのだろうか。

本来『文隆さん』と呼ぶべきなのだが、何故か『文隆』の方が心の中で落ち着く。未だ、知り合ったばかりなのに。


文隆: 果たして伝説の茶室は、私が期待した程の空間では無かった。余りにも狭く、外から見物するだけではあったが、それでも大柄な私には酷く息苦しく感じられた。

 ただ、無造作に設けられた窓が、実際には吟味され尽くしたものなのかも知れないが、独特の調子を形作って居る。

私は自分の感性では、理解はここまでだと感じた。無粋な東男には、ここが限界なのだ。

 本来此れ見よがしな細工を是としないのが和の心だと思うのだが。

 窓から入る光は、建築に於いて決定的な意味を持つのだろう。或る建築家が、私の仕事場に上下高さが極端に低い窓を目の高さに切ると面白いと提案している。

 確かに、面白いだろうとは思ったが、結局、その様な仕事場を未だ作って居ない。

 さて、一通り見物し、その良さに心震わせる事も叶わぬ私は、床に懸かる軸に目を向けた。

『龍吟虎嘯』

 茶室にしては、少々騒々しい字だ。何方か位の高い坊さんの墨蹟だろうが、その意図が分からない。ただ、浅学無知の輩には到底計り知れない深淵なる意味が籠められて居るのは間違い無さそうだ。

 何れにしても、自分ならもっと違う書き方をするだろうと、頭の中で筆を走らせた。『吟』と『嘯』はもっと小さく書いて強弱の差異を強調するか。

 一方、彩愛は、許される時間の全てを使ってやろうと、凡ゆる角度から八窓席を熱心に覗き込んで居た。彼女が何を何から受け取って居るのか、私には興味深かった。自分は然程に感心しないものに、若い女性が熱心になっている。何故だろう。彼女は、それを私に話してくれるだろうか。


彩愛: 文隆さんは『鶴亀の庭』に全く感心して居らず、それよりも背後に掛かって居た鉄舟の扁額が気に入って居た。それがあからさまで愉快だった。更に、『八窓席』にも全く心を動かされて居ない。彼の興味を引いたのは、どうやら床のお軸だけ。

 彼は彼独自の基準で物事を判断し、他人の意見には一切流されない種類の男なのだろう。矢張り。


彩愛: 「名物に美味い物無しって、観光名所にも言えるのかしら。」

 私は満たされない思いを口にした。随分と捻くれた物言いだったと自分でも可笑しかった。


文隆: 拝観が終わり、靴紐を結んでいると、かなり辛辣な言葉が彩愛の整った唇許から飛び出した。

「おいおい。」

 私は愉快になった。他に迎合しない、なかなか逞しい感性の持ち主だ。


彩愛: 「素晴らしいと思うわ。文句無くアイデアに溢れて居て。でも、『鶴亀の庭』も『八窓席』も、遠州さんが自分の発想力を『どうだ、凄いだろう!』とばかりに、有りっ丈の想像力を詰め込んでいて、ちょっとゴタゴタし過ぎ。押し付けがましい。想像力と言えば感じが良いけど、自己顕示欲以外何物でも無いわ。」


文隆: 「権威が鼻に突くのかい?」

 世間一般に受け入れられて居る『美』を真っ向から否定する姿勢に気風の良さを感じた。


彩愛: 「有り体に申せば。そう。特にあの庭なんて、単に権力に尻尾振っているだけじゃない。」

 私は真剣だった。

「大徳寺孤篷庵の『忘筌』の方も拝見したいわ。写真からの印象だけだけど、『きれいさび』を私でも解る様に具現していると思うの。」


文隆: 「実物を拝見したいね、是非。」

 私も言った。


彩愛: 「ところが大徳寺孤篷庵の特別公開って、滅多に無いらしいの。事有る度に調べているんだけど。日頃の行いが悪いのね。」


文隆: 「まあ、そういうこったろうな。」

 私は、彩愛にここまで砕けた遠慮の無い物の言い方をする自分に驚いていた。

 そして、我々は肩を並べて、ゆっくりと宛ても無く彷徨う。殊更に交わす言葉も要らず、歩みと時だけが進んだ。


彩愛: 「お軸を熱心に観て居たけど。」

 私は彼が何に興味を持ったのか知りたかった。


文隆: 「そう、ちょっと茶室には似付かわしいとは言えない、何だか騒々しい言葉だと思ったんだ。」


彩愛: 「龍だとか、虎だとか。龍吟虎までわかったけど、その後の一文字が分からなかったわ。」


文隆: 「『龍吟虎嘯』だ。龍吟ずれば雲湧き、虎嘯けば風が起る。嘯くって、虎が吠えるってこと。」

 私は空に指で書いて見せたが、恐らく、分からないだろうと思った。後で、手帳に書いて見せようと思った。スマートフォンでも、良いか。


彩愛: 「確かに、些か動的な印象の強い言葉ね。」


文隆: 「動的印象って、何だか良い言い方だな。」

私は感心した。

「兎に角、茶室に懸ける以上、もっと席に相応しい意味もあるのだろう。僕には分からん。帰ってじっくり意味を調べるよ。そして、自分でも書きたい。」


彩愛: 「書道をやるの?」


文隆: 「書道、じゃなくて、習字だ。字を習い、字に習うんだ。」

 今度は、私は空に指で『習字』と書いて彩愛に見せた。


彩愛: 「字に習うって、凄いわね。」

 自分勝手に、好き勝手に生きて来た男だとの印象だが、本来の姿は違うのかも知れない。人間は、大体において、第一印象より深い生き物だ。


文隆: 「始めた当初は、書道と言って意気がって居たんだ。でもね、何度も何度も試行錯誤しながら同じ字を繰り返し書いて居ると、言霊が自ら書かれたい形を教えてくれているのではないかと漠然と感じる様になったんだ。それが、字に習う、だ。」


彩愛: 「言霊が?」


文隆: 「そう。他に表現の仕様が無いから、『言霊』って言葉に逃げ込んで居るに過ぎないんだが。」


彩愛: 「もっと説明して。面白い。」


文隆: 「書いて居るとさ、よく、これじゃあない、って思うんだ。次はああしよう、こうしようって思う。すると自然に自分の中に、理想形が出来上がってくる。でも、その理想形って、何処から来るんだろう、どうやって生まれて来るんだろうって、不思議に思うようになったんだ。」


彩愛: 「その理想形に導いてくれるのが、言霊?」


文隆: 「そう。こうしろ、ああしろって教えてくれるのが言霊。字に習うって、そう言う事なんだ。飽く迄、修行の身である僕の、今現在の理解ではね。」


彩愛: 「見たいわ。今度、見せて。」


文隆: 「いつでも。」

 お世辞で言われたとしても、嬉しい。


文隆: 「『福聚海無量』って言葉があってね。観音様のしあわせを齎す力は海の如くに無限大だって意味なんだ。これも後で、手帳に書いて字を見せるけど。」


彩愛: 「『ふくじゅかいむりょう』ね。聞いた事はあると思う。」


文隆: 「『聚』の字が、『壽』である事が多いんだが、僕が書いたのは『聚楽第』の『聚』。」

 私は、空に指で書いてみたが、これは伝わらないと思った。これも、後で書く。


彩愛: 「完璧に分らなくなったわ。後で書いて見せて。」

私は、彼の話しがちょっと愉快になって来た。


文隆: 「兎に角。先日、どう筆を運ぶべきか色々迷いながら書いて居たんだ。そうしたらさ、硯の墨が少なくなって来た頃、頭の奥底で声がするんだ。『お前の如き半端者が巧く書こう等と生意気なことを抜かすな。観音様にお縋りしろ。総てお任せしろ。』ってね。」


彩愛: 「不思議。面白いわね。」


文隆: 「それで、下手でも良いじゃん。これは、僕の祈りなんだよって、本当に空っぽになった様に、観音様にお任せして、筆を執ったんだ。そうしたら、自分でも驚く様な字が書けてね。嬉しさと、怖さで身体が震えたよ。」


彩愛: 「怖い?」

 事有る毎に霊能力やそれに準ずる単語を、エネルギーとか波長とか、意味も解らないまま無闇に振り回す輩より、こうして不思議な話しをする人物の方が信用出来る。


文隆: 「自分の中に、自分の知らない何者かが棲み付いている様な気がしたんだ。しかも、そいつが自分の代わりに筆を操る。怖くもなるさ。」

 私は話した。軽々に話す様な事柄では無かったが、彼女ならきちんと受け止めてくれると信じた。


文隆: 二人であちこち歩いている内に、我々は、ねじりまんぽから俗世に出ていた。


彩愛: 「大徳寺へ行きたい。前回来た時は、余りゆっくり歩く時間が無かったのよ。」


文隆: 「そうだね。僕も行きたいよ。普段は一般に公開していないけど、真珠庵には行きたいね。一休宗純に興味が有るんだ。いずれにしろ、もうこれから行っても遅いから、明日だ。今日は、建仁寺へ行こう。」


彩愛: 「じゃ、明日は、朝から大徳寺ね。」

 私は念を押す様に言った。

私は、文隆と一緒に名刹を回るのが楽しかった。知性と落ち着きを持った、同年代には無い魅力を持った男。そして、母親との微妙な関係。このまま時が進めば、彼は自分の義父になる。かも知れない。

 自分が結婚する時、彼は私の隣に立つのだろうか?

その可能性は決して低く無い。

考えるだけで、違和感。


文隆: 私は、彩愛の何かを考えているらしい横顔を観察しながら、自分の血を引いて居たら、ここまで美しくはならなかっただろうと熟思った。愛嬌のある娘にはなっただろうが。


文隆: そうだ。この若い才能の未来に自分は力を貸す事が出来るだろうか。


文隆: 私は、三条通りを渡ってタクシーを拾い、建仁寺を参拝してから祇園に入ろうと大まかな行程を頭に描いた。


彩愛: 『自分が変わった瞬間って、解るんだ。俺。』

 大通りを駆け抜ける車の数々を眺めながら、アイツの言い振りがふと頭に過ぎった。

『俺、ちゃらんぽらんだったんだけど、プライドだけは高かったんだ。だから、自分で自分に約束することにしたのさ。』

『俺は、他人には嘘を吐ける。だが、俺は俺を裏切れない。俺は、俺に嘘は吐けない。』

『自分が自分に約束したから。』

『神に誓うのでは無く、君に誓うのでも無い。自分が、自分に誓うんだ。嘘も言い訳も通じない、俺に俺が誓うんだ。だから、自分で決めた事は、自分でやり遂げる。』

 私は、アイツとこの京都を歩きたいと思った。彼は、一体何を感じ、どう表現するのだろうか。

 何で、アイツは突然、私にその話しをしたのか。分からなくは無いが、信じたく無い。未だね。


彩愛: 「ここから建仁寺って遠いの?」

 私は折角京都を訪れているのだから、その真髄まで味わい尽くしたかった。この中年男なら何時間歩かせても、ビクともしないだろう。少なくとも、今までの人生で一度は鍛えた身体だし、未だビール腹では無い。

 それに五本指ソックスだし。


文隆: 「道に迷う事を計算に入れると、それでも、まあ、一時間も掛からない。かな。」

 私は言った。正直、ここと祇園の間は歩いた経験がない。正確な時間は分からない。ただ、頭の中でざっと地図を描いて、当てずっぽうに答えた。

「粟田神社から八坂神社を抜けて行くんだろうけど。歩こうと思った事すらないよ。」

 私には、その道がどのような風景を見せてくれるのか、俄かに楽しみになった。


彩愛: 「粟田神社?」

 私は、聞き覚えのある地名に色めき立った。

「粟田神社って粟田口の側?」

 自分の声が、少し高くなっているのに気付いた。


文隆: 「そうね。一般的には、先ず粟田神社があってその鳥居前が粟田口って順番だと思うけど。」

 私は笑った。

「何故?」


彩愛: 「ううん。ちょっと長い話しになるから。いずれ。」

 私は、ちょっとしたアドヴェンチャー・ゲームのキャラクターになった様な気がした。

粟田口から祇園までの間。歩いて一時間に満たない距離に、祖父と母、引いては自分も含めた運命を決定付けた、小さくて立派なお稲荷さんが鎮座していらっしゃる。きっと。

 今回、京都に遊ぶと決めてから十分な時間が有ったとは言えない。それでも、勿論、地図を開き、祖父の話しに登場した地名の位置関係を頭に刷り込んで置く位は出来た。しかし、先入観を持って仕舞うと、素直にお稲荷さんの声に耳を傾け、歩を進める事が難しくなると考えたのだった。

 だから今回は、頭を空っぽにしたまま、白紙の状態にしようと決めた。

 京都は初めてではない。大徳寺、祇園、建仁寺等の名前は知っては居るが、飽く迄それらは不連続な点であり、位置関係は大凡の見当が付いて居る程度だった。


文隆: 私はもっと歩き易い靴で来れば良かったと思って居た。

 そして、黙って歩く彼女の姿を意識しながら、形の良い娘だと感心しながら、足を前に運んだ。

 ここに由紀が居れば、また違った意味で濃密な時を過ごせただろうと思った。


彩愛: 「ね。八窓席って。」

 私は咄嗟に言って、言葉に詰まって仕舞った。何か言いたい事柄を思い付いたのだが、巧く表現出来ない。


文隆: 彩愛は、言葉に詰まっていた。言葉と言葉の間に、一定の調子で二人の靴音が聞こえる。

 私は、話しの続きが生まれて来るのを待った。

京の街を、やや下を向きながら歩き、言葉を探す彼女の姿は、洒落た映画の一場面として十分に成立し得る。


彩愛: 「八窓席は、本来、時の移ろいを味わう為のお茶室だと思うのね。お茶事の間、窓の影が、人々の影が少しずつ畳や壁の上を動いて行くの。その静謐な時を、敢えて騒々しいお軸で際立たせているんじゃない?」

 うん。そう。その調子。私は歩いて居る間に考えを纏め、自分の解釈を言葉に載せ始めた。

「若しくは、龍と虎で、光と影を表しているのかも知れないわね。」


文隆: 私は、彩愛の意見を聴きながら自分より大きな知性の存在に圧倒されて居た。感性とは持って生まれた才能なのだ。教えて、教わってどうこうなるものでは無い。そして、彼女はその感性を知性へと昇華させているのだ。

又、彼女の如くに五感を研ぎ澄ませて生きることの息苦しさも想像し、同情もした。

「本当に、君の言う通りかもしれない。何にしろ、ほんの束の間、お茶室を覗いただけでは本来の味わいを楽しむ事は出来ないからね。」

 己の口から出た言葉が余りにも凡庸だった。しかし、他に見付からなかった。私は自分の貧弱な感性知性が寂しかった。

「見事だ。」

 何がどう見事なのか分からないまま、私は言った。


彩愛: 「私、お茶をしっかり学びたいわ。大学に入ったばかりの頃は、祖母に連れられてお茶のお稽古に通っていたんだけど、彼女の膝が悪くなっちゃって、正座が辛くなって仕舞ったのよ。立礼でも続ければ良かったのに。」

 私は、今、軽い後悔をしていた。もっと深い理解が出来た筈なのに。

「それから、足が遠のいちゃったわね。一人で通い続けるのが億劫だったのよね。続けるべきだったわ。お稽古では、皆さん本当に可愛がってくださったから。」

 そう。皆さん、可愛がって下さった。祖母の傘に守られて居たっていうのも勿論だが、先生のさっぱりした気性もジメジメしたポリティクスの一切を潔しとしなかったのが良かった。心付けや贈り物等、鬱陶しいとおっしゃって全て受け付けない姿勢が爽快だった。

 祖母は、私に続ける様に促したが、どうしてもお茶の世界に頭の先まで沈み込めなかった。多分、お茶の文化的価値を本当の意味で理解していなかったのだと思う。理解出来なかったのだ。

 今、少しだけ大人になり、漸く学びの季節が来たのかもしれない。お茶を学ぶ意義を味わえるまでに育った様な気がする。

 どうでも良い雑談を交わして歩いていると、もう『けんねんさん』だった。

 探して居た御社は未だ見つからないまま着いてしまった。見落としてしまったかも知れない。否、見落とす筈は無い。必ず、向こうが此方を引き寄せて下さる。

 しかし、見つけてしまったら、京都へ来る口実が無くなってしまう。


文隆: 私が歩みを止めると、彩愛も直ぐ脇に立った。彼女の周りの甘やかな香りが微かに揺れる。

「今度は建仁寺法堂の双龍図か。」

 私は、双龍図特別公開の案内看板を見て、思わず小さな笑いを漏らした。

「小堀遠州の後に小泉淳作。盛り沢山だな。」


彩愛: 「観るわ。これも何かの御縁よ。でも、一時間しか無いわ。」

 私は、美術館で時計に追われるのが大嫌い。美味しいご飯も急かされたら、味を充分に楽しめない。


文隆: 「良いんだ。本当に力を持った作品を鑑賞するなら、それが本物の芸術作品であればある程、前に立っているだけで体力を消耗するだろう。四十五分もあれば充分だよ。」

 私は言ったものの、しかし、それでも後一時間しか無いと聞くと何やら急かされている気がした。だが、確かに、これも縁だ。素通りは神聖冒涜に他ならない。

『最後は、何処で自分を許すかだよ。』

 私は、何年も前、テレビで小泉画伯が正にこの双龍図を仕上げながらそう仰ったのを記憶している。

 甘えの一切を排した峻厳なる創作の世界。何事も追い込むことが叶わない自分が、ただ只管に憧れる言葉だった。

 法堂に入ると、私の視線は自ずと上に吸い込まれた。

 天井が、他の如何なるものとも違う圧倒的な力、邪なるもの一切を焼き尽くす苛烈な熱を放っていた。今にも双竜が駆け下りて来て、自分を空高く巻き上げてくれるのではないかと錯覚する。何処か、考えられない程遠くへ、飛んで行ける様な気がするのだ。

 このまま床に寝転がって何時迄も見上げていたい。

 彩愛も、私の無言を共有していた。その至って静かな時の流れが、心地良いものだった。彼女の長い首へと流れる顎の線が美しい。

 自分に娘が居たら、こんな経験を味わうことが出来たのだ。そう思った自分自身を、私は興味深く掘り下げた。私自身、男子二人を途中までは育てた。しかし、最後まで育て上げたと言う自負も、自信も、事実すらも無い。別れた妻が、春海がその後を一人でその責務をしっかり果たしてくれた。今や、二人とも自分の血が半分流れて居るとは思えぬ程に立派な大人になっている。

 ふと、二人の息子の何方かが、若しくは両方が彩愛に同時に恋をしたら、どうなるだろうと思った。

 可能性は無くは無い。


彩愛: 「天龍八部衆。か。仏法と切り離しても、素晴らしい絵。でも、お寺にあるから完成しているのよね。伽藍全体がこの天井画のフレームだから。」

 私は、自室の天井にこの絵が在ったら眠れなくなるだろうなと思い、密かに笑った。

 ずっと上を見上げて居る文隆の顎に、一センチ程の傷痕を見付けた。絵に魂を吸い込まれて居る様子。彼の人生の何処かで付いた傷。


文隆: 「上野の博物館で仏像を拝見するのと同じだよね。美しさは見えるけど、本来の存在感を味わう事は出来ない。」

 私は、彩愛と同感だった。そこが、宗教美術と他の美術の違いか。


文隆: 「お茶でも飲みたいね。凄まじい双龍を観た後は。」

私は彩愛を従えて、建仁寺界隈を漫ろ歩いた。夕食まで未だ間がある。静かな、具合の良いカフェを探した。

「魂を撃ち抜かれたよ。胸を前からドンっと突かれたら、背中から魂がポロっと落ちたって感覚。胸に妙な空虚感が残っているよ。」

 私は、どうも子供っぽい感動の表現になってしまったのが悔しかった。


彩愛: 「分かる。それ。」

私は文隆の言葉が気に入った。

「私もマジに疲れたわ。魂を引っ掴まれて激しく揺すられたから。」

 頭蓋骨の中の温度が上がった様な感覚が心地好かった。

「アイスクリームでも食べれば、熱くなった頭を冷やして、空虚な胸も埋められるかしら。」

 私は言ったが、流石に美味しい夕食前にアイスクリームは有り得ない。


彩愛: 手近に在ったカフェに入る頃には、風が強くなっていた。

 夕食前だから、コーヒーより、紅茶を選んだ。

「今の気分は、ダージリンより、ウヴァの系列が良いかな。」

 私は、メニューに丁寧に記された説明を読みながら決めた。


文隆: 「確かに、繊細な和食の前にコーヒーは強過ぎるよね。そうか。」

 私は、彩愛の案に感心した。そこまで意識していなかった。

 星印が付けられたロイヤルミルクティーに決めた。


彩愛: 「今日ね、本当は、ママ、忙しかったんじゃなくて、ちょっと、怖かったんだと思う。自分で文隆さんに会うのが。確かに昔からのお得意様からの依頼だったけど、未だ時間的余裕が有ったし、スタッフの皆さんに全てお任せ出来る内容だったのに。」

 彼女は、昔の恋人に会うのが不安だったのだろう。双方共に年輪を重ねている。ママが自身で感じる容色の衰えと、文隆の頭皮に顕著な老いは、どっこいでしょ。

「だから、多分、私に文隆さんを観察させたかったのよ。絶対。」

 私は自分の頭で組み上げた母親の心理を言葉にしてみた。

「で、ママには素敵な男に仕上がっていたと報告すれば良いのね?」

 私は、スマートフォンを取り出して言った。

「もうそろそろ京都駅だと思うから。」


文隆: 「否、仕上がりつつあると伝えてくれ。未だ未だ、俺は完成途上だ。」

 私は、その点に於いては、真剣だった。

「でも、その辺、思いっ切り話しを盛ってくれ。実物を前にして、ちょっとだけ失望するより、大々的に失望する方が楽しいだろう?」

 私は自分の言葉に大笑いした。彩愛も手を叩いて大笑いしていた。中々豪快な笑いだ。大笑いする女性は、それだけで魅力的だ。

 最早、由紀に対して見栄を張っても何にもならないと知っている。どうせ、彼女は容易く此方の正体を看破するだろう。誤魔化す事は何も無い。在るが儘の自分を、彼女の前に晒せば良い。それだけで、良い。そうでなければ、彼女に失礼だ。


彩愛: 私は自分の父親とこうしたひとときを持てなかった事が残念でならなかった。或る友人の話しでは、若い頃は父親が鬱陶しいだけの存在だったが、ある程度の年齢になると人生の先達としての父親に出会う事が出来るのだそうだ。

「パパを一人の人間として深く理解出来ない内に両親は離婚してしまったわ。偶に会うけど、微妙に距離が開いちゃうのよ。そりゃ、以前よりは双方大人に成ったから、状況は幾分良くなったけど。」

 もっとも、理解する程の内容を持った男だったかどうか、私には確信が無かった。

「もっとも距離は開くのが自然だわね。」


文隆: 「そう。普通に父親をやった所で、子供は所詮他人だろうさ。ある程度は他人行儀にはなる。逆に、そうじゃないといけないだろう。僕も離婚して仕舞ったからね。偉そうな事は言えないが。」

 私は二人の息子の顔を思い浮かべて言った。父親と息子は牽制しつつ協力し合うのが自然の摂理であり、健全な関係だと思っている。勿論、彼等からすれば、私は父親以前に人として甚だしく無節操、無責任で、失格であっただけだ。疑う余地も無い。


彩愛: 「パパはね、私と一緒にゴルフに行きたいらしいんだけど、断り続けているのよ。だって、何時間も一緒に居なければならないんでしょう?食事なら、いくら気不味くなっても、二時間も我慢すれば絶対に自由になれる。」

 私にとって、父親とは、人間的な欠点を曝け出して生きる男で、その点は親しみを感じる。しかし、彼が母親に、家族に掛けた迷惑を考えると、どうしても釈然としない。自分との間には埋められない深く暗い溝が横たわって居る。


文隆: 「父上は、御上手なの?」

 私は、彼のゴルフの腕前に興味を持った。

本当は、彼が家族に掛けた迷惑が、一体どの様な物であったか訊きたかった。自分と奴の何方が悪いか、比較してみたいのだ。そして、自分がそこまで悪い男では無かったのだと安心したいのだ。我ながら妙な欲求だと思った。


彩愛: 「本人曰く、人様に迷惑を掛けない程度。かなり調子の波が大きいみたいだけど。で、人様曰く、お世辞抜きで上手な方ですって。兎に角、ガタイが良いから、飛ぶみたい。」

 文隆さんが、父親が掛けた大迷惑に付いて質問しないのは、他人の家庭事情に対する配慮だろうか。それとも、同じ失敗をした同性としての気遣いか。

 ママに直接尋ねる気かしら。


文隆: 彼女は頬杖を突いて、その美しい顔の輪郭線を強調する形になった。鼻筋は、絶対に由紀から来ている。

 あれは何処のレストランだったか記憶が定かでは無い。由紀と二人の、光に満ちたテラス、ランチのテーブルだった。白いクロスに反射した光が彼女の顔を浮かび上がらせていた。まるで上質なポートレイトの様で、美しく、心行くまで見惚れていられる私は、己の幸運に心から感謝していた。

 それから、長い月日が経ち、どういった運命の悪戯か、その美しい女性の娘とこうしてテーブルを挟んで座って居る。

 あのレストランは、何処だったのだろう。私は思い出そうとした。あの頃の事だ、余り高い店ではなかった筈だ。そうだ、あそこだ。名前は思い出せないが、明確に場所を思い出した。


彩愛: 然程大きく無いテーブルを挟んで、取り留めのない話しが、主に旅の話しだったが、往復する。お互いが何を求めて世界を歩くかが判ると、相手の全体像が多少はっきりと見える様になる。

 私は思った。この男は、長い年月を掛けて様々な旅をして来た。そして、一回一回の旅で、恐らく通常の人々より多くのモノを吸収して帰って来ているのだと。

 ふと、この男と自分の母親が異国の小径を歩く後ろ姿が頭に浮かんだ。そう、そんな日が来るかも知れない。


文隆: カフェを出て料理屋に向かって歩いて居ると、怪しかった空が、遂に泣き出した。

 若い彼女より、半世紀モノの私の頭が、雨に関しては圧倒的に敏感だ。

 私は、彩愛に言った。

「彩愛、先に行け。次の角を右に曲がって、左側三本目の小道を左。そして、左手最初の小さな提灯。」


彩愛: 「右折して左側三本目を左折ね。」

私は復唱し、先に駆け出した。京都の道は複雑だと、つくづく思った。成る程、お稲荷さんを探すとなると、相当の手間になる。おじいちゃんが探し得なかったのも、理解出来る。

文隆さんは、私の直ぐ後ろを、無理なく走って付いて来る。走り慣れた、無駄の無い滑らかな動き。

雷鳴も、祇園に響く。


文隆: 私も、彼女を追って走った。走るのは子供の頃から好きでは無かった。カモシカの後を追うイノシシになった気分だ。右折、そして、左折。左に曲がった刹那、私は自分の身体がふと重くなったのを感じた。私は、普段からスポーツに興じ、年齢を考えると破格の運動能力の持ち主だと自負して居た。しかし、その自分の脚が鉛の靴を履かされた如く動かなくなったのだ。

 雷に打たれたか。一瞬、自分に向けて冗談とも本気ともつかぬ言い訳をしてみる。

 ふと左手に目を遣ると、そこには鳥居が立ち、その向こうには暗闇が続いていた。訝しむには充分な状況だった。

 祇園に来る度、ほぼ確実にここを通る。そして、毎回、周囲に漂う止事無き気配に興味を唆られては居た。しかし、今宵は、何か自分では如何ともし難い大いなる『力』の様なものを感じた。

私は信心深い方ではなかったが、何時もの通り、頭を垂れ、敬意を表した。

 すると、ふと、身体が軽くなった。

 再び店を目指して顔を上げると、彩愛が既に店に入り、代わって馴染みの仲居、中嶋さんが傘とタオルを持って出て来る所だった。

彼女は、こんな素敵なお嬢様がいらっしゃるなんて、何で今まで秘密にしていらしたのかしらと言いながら、私の顔を覗き込んだ。

 私は、胸は騒いでいた。不整脈を疑う程に。


彩愛: 「何時も沖田がお世話になって居りますって、言っただけなのに。」

 私は、中居さんの笑顔を見ながら、全く似て居ない二人を親娘だなんて言ったのか訝しんだ。でも、文隆さんが懇意にしている料理屋さんの関係者なら、彼が縁も無い若い女性を連れて来るとは考えもしないだろう。となれば、年齢から親娘が一番可無難な線だと判断したのだろうか。


文隆: 「参ったよ。いきなりの豪雨だからね。老体を走らせやがって。」

 私は言い、中嶋さんが差し出すタオルを受け取った。そして、二階の手前に部屋を用意していると聞いて、店側の厚意に感謝した。壺庭を見下ろす、私が気に入って居る部屋だ。

 中嶋さんは、千駄木さんが御老体なら他の方々は仏様か何かになるんでしょうと笑った。

 ああ、そうだった。ここでも靴を脱ぐのだった。


彩愛: 「素敵!」

 私は、余り簡単な表現を乱発するのは好まない。でも。初めて足を踏み入れる大人の料理屋の座敷に、思わず一番在り来たりの言葉を発して仕舞った。

 設えの一つ一つが吟味されている。華美に過ぎず、質素に過ぎず。

「塗りの文箱が素敵。品の良い蒔絵ね。」

 私は、後でトイレに行こうと思った。祖父は御不浄に主人や女将の心意気が表れると言って居た。

テーブル席なのも嬉しかった。畳に座るのは苦手。


文隆: 「来月は何日だっけ?青葉台から何か聞いている?」

 私が尋ねると有能な中嶋さんは直ぐに十七日だと返答し、続けて確認して来ると加えた。そして、部屋を出る際に、後程女将が御挨拶に伺うと付け加えた。

 更に、主人が私の好みにぴったりの酒、男酒が入ったから、如何かと。

「それ、お願い。」

 私は言って仕舞ってから直ぐに彩愛にも好みを訊けば良かったと思った。


彩愛: 「私は、何でも頂くわ。味見したい。」

 私は、此方に目を向けた文隆に、お酒に強くはないけど、一口飲んでみたいと言った。大人達が美味しいと褒める日本酒を飲んでみたい。

 人を地名で呼ぶのも面白いと思った。店にいらっしゃる他のお客様達に聞かれても誰の事だか分からない様に、謂わば、隠語なのだろう。私は勝手に想像した。

「千駄木さんなのね。」


文隆: 「そう。オフィスが千駄木だからね。以前は団子坂さんだったんだけどね。いつの間にか千駄木さんになったね。」

 私は言った。私自身、その変化がいつ頃だったか、覚えて居ない。

「そもそも誰が『千駄木さん』と言い出したのかも分からない。」


文隆: 襖の外で、お連れ様がお見えに成りましたと中嶋さんの声がした。

「はい。」

 私は返事をして、ゆっくり開く襖の隙間に全神経を向けた。

 小さく手を振る由紀。

 一体、私たちは満月をいくつ見送ったのだろう。

 私は、入って来るなり暫く言葉を発することもなく、凍り付いた様な笑顔を見せる昔の恋人に声を掛けた。

「迷わなかった?」


由紀: 「全然。事前に地図で調べておいたから。でも、東大路通でタクシーを降りてから、スマホに頼らずに辿り着いたのは奇跡ね。不思議。」

 文隆と付き合って居た頃は相当の方向音痴だったが、現在は仕事上の必要性も有り、かなり訓練されている。とは言え、今宵は我ながら感心する。


由紀: 「素敵なお店ね。嬉しいわ。」

 私は、今、玄人の間で評判の店に興味津々。決して華美に走らない誠実な姿勢が見て取れる。


文隆: 続いて女将が顔を出した。

彼女は深々と挨拶をすると、直ぐに目を彩愛に向けた。一瞬の間が有り、そして、美しいだけではない特別な存在感、不思議な力をお持ちだと言った。

 続いて由紀に目を向け、総ては御母様から受け継いでいらっしゃるのねと付け足した。

 そして、来月は十七日。そして、蟹は出すなと念を押して居らっしゃったからきっと下北沢さんもご一緒でしょうと。

 私は大笑いした。下北沢の蟹嫌いは何時でもネタになる。

 奴とは同じ東京に拠点を置いているのだが、お互い忙しく、ここ暫く、顔を合わせるのは京都だ。


文隆: 「仲良しのオバさんオジさん連中が、時々、この店で集まるんだ。来月十七日もそう。関西組と関東組で半々で、毎回、七、八人前後集まるってところだ。」


文隆: 「その中でも下北沢は筋金入りの変人でね。その内に紹介するよ。」

 私は彩愛に言った。

 妙な話し、彩愛と下北沢は何か共通する要素を持って居る様に思えるのだ。他人を絶対に入れない世界に住んでいる。


彩愛: 女将が出て行くと入れ替わりに中嶋さんが、お猪口を沢山乗せたお盆を持って入って来た。

 好きな酒器を選ばせてくれる趣向だ。

 文隆が先に選べと目で私に促す。

 私は、僅かに緑が入った薄い瑠璃で作られた八角形の物を選んだ。

「男酒を繊細の極みで受け止めるの。」

 私は言って舌を出した。思わず可愛子ぶって仕舞った。ちょっと柄にもない事をするのは、それだけ今自分が置かれている状況が日常からかなり懸け離れている証左だ。

 ママの前でやって仕舞ったのが悔しかった。

『流石、お嬢様。』

 中嶋さんは感心した様子で、正しく以前に千駄木さんが選んだものだと仰る。普段は、極力同じお猪口をお目に掛けない様にするのだが、お嬢様のお好みかと勝手に想像してお持ちしたのだと自慢気だった。


文隆: 私は、彩愛が私と同じ好みだったのが嬉しかった。偶然で片付けたくない、何かの縁を強く感じた。

「確かに、ここで同じお猪口を見たことは無かった。」

一流の料理屋とは、同じお猪口を出さない様に心を配るものなのだと初めて学んだ。そう、ここの店だけかも知れないが、何にしろ、そこまで拘る余裕があるのが一流なのだ。


由紀: 中嶋さんが『奥様』と言って、私にお盆を差し出す。

「私は、そうね、迷うわ。」

 私は、正直迷っている。自分が何を選ぶかより、文隆が何を選ぶかが気になる。そして、それを自分が選び、彼に渡して驚かせたい。

「となると、文隆はその土味豊かな備前ね。」

 私は、それを手に取って彼に手渡す。文隆。呼び捨てにする。彩愛の前で。何十年振りだろう?文隆。文隆。文隆。


文隆: 「あはっ。」

 私は正直驚いた。正しく、私が目を付けて居た猪口だった。

 誰でも、何についてでも良い。どの様な些細なことでも良い。自分以外の人間と、感性を共鳴し合えるのが嬉しい。楽しい。

「何だか見透かされたのが嬉しいのか、自分がそこまで単純で分かり易い男だと指摘されて仕舞ったのが悔しいのか。分からんな。」


由紀: 「振り幅の大きい所を狙っただけ。土味豊かな、しかし、姿の良いもの。」

 私は笑う。

「で、私には、何が似合うと思う?」

 私は文隆に挑む。


文隆: 「その、青磁かな。蓮の花を模して居るの?これ、茶杯?」

 私は指差した。

 中嶋さんは、大きく頷き、女将が中国茶に凝って様々な意匠の茶杯を集めて居るが、これも、その中の一つだと言った。


由紀: 「蓮の花なんて、趣深いわね。繊細で何だかトロリとした艶やかさを持って居る。朗らかな曲線。でも私には若干小さいわね。もっと大きなモノが良いわ。」

 私は笑いながら、それを指で摘む。ひやりとした手触り。私に釣られて、一同が大笑いするのを見るのが、心地の良い幸せ。

 中嶋さんは笑いながら出て行く。

「蓮の花でお酒を頂くって、なんだか罰当たりな気がする。」


彩愛: 男酒と評される日本酒を飲み、実際、私はその骨の太さが気に入った。香りが高く、それだけで酔えた。

「何だか、こんな素晴らしいお店は、初めての経験。大人って、良いわね!」

 私は言った。


由紀: 「生意気。こんなお店、アンタには早過ぎるわよ。」

 私は笑顔だが真剣。だが、振り返ると、私も和食以外では生意気な店に幾度も娘達を連れて行って居る。

「文隆は、こう見えて昔からお酒が弱くてね。」

 私の中から思い出話しが次から次へと溢れ出す。それを抑制するのももどかしい。でも、それが楽しい。

「バイトの帰りに待ち合わせして、メキシコ料理のお店へ行ったの。私達。」

 その時点で、既に私は笑い出して仕舞う。

「でね、最初にウエイトレスさんが飲み物の注文を取りに来るでしょう?そうしたら彼が私に先に注文する様に促したの。私は自分が飲みたい生ビールを頼んだのよ。そうしたら文隆、何を注文したと思う?ヴァージン・ストロベリー・マルガリータよ。」

 文隆も彩愛も大笑い。

「暫くして戻って来たウエイトレスさんは私の前にヴァージン・ストロベリー・マルガリータを置いて、彼の前にビール。当然よね。」

 私は可憐な女の子を演じたかったあの時の自分を懐かしんで居る。

「私は『女としての意地の問題』って言って、彼の前に置いてあるビールを飲むと、また彼の前に戻して居たの。」

 私はそう言って笑う。


彩愛: 「意外よね。お酒が似合いそうな人なのに。」

 私は言った。

この男が、将来私の良人になる男と信頼の握手を交わすのかも知れない。義理の父親って、そう言う人物?

実の父親と何方がその大役に相応しいのかしら。


彩愛: 「さっきのお習字の話しの続きなんだけど、『ふくじゅかいむりょう』って、どう書くの?」

 私は会話が途絶えた隙間に先程から気になって居た質問を捻じ込んだ。少しのお酒で、何かがとても楽になった様な気がする。自分の知らない世界を、広い世界を持っているこの男から、出来るだけ多くの話しを引き出そうと思っていた。


文隆: 「そうだ。今、書く。」

私は一旦席を離れ、部屋の隅に置いたバッグの中から手帳と万年筆を取り出した。

『福聚海無量』

 そう書いて、彩愛に見せた。


彩愛: 「成る程ね。聚楽第の『聚』ね。」

 私は予想通り文隆が黒い万年筆を取り出したのが可笑しかった。拘りの人物像にぴったり。

「字を習う。字に習う。本当に興味深いわ。」

 私は、文隆が万年筆のキャップを戻す様を見て、彼の言葉を呟いた。皮のケースに入れる仕草が、儀式的。

 昼間、二人で一緒に京都をそぞろ歩いて居る時に感じた何か他の人間とは違う圧力波の、その発生源を見た気がした。


由紀: 「字を習う。字に習う?なんの事かしら?」


文隆: 「習字ってさ、字を習うって書くけど、字に習うって事もあるんだ。それが、習字をやっていて、これまでの最大の収穫。」


由紀: 「でも、文隆とお習字って、何かとても違和感のある組み合わせね。」

 私は心底驚く。彼の悪筆が記憶に刻み込まれて居る。詩的表現に満ちた素晴らしく美しい恋文を、何通も、極めて読み難い字で送って寄越した頃を思い出す。

 彩愛は私の知らない文隆を知って居る。


彩愛: 「その万年筆のインク、良い色ね。全然話し変わるけど。」

 赤紫。黒や青ではない。


由紀: 「昔から、万年筆は黒基調だったわよね。インクは、緑だったり、赤だったり。着る物はいつも酷かったけど、インクだけはオシャレだったわ。」

 私は、物事の優先順位が他の同年代の男とは次元を異にしていたのを思い出す。


文隆: 「下手な文字に、在り来たりの黒や青じゃ益々寂しいだろう。他の、余り使われない色なら、言葉の説得力が上がるかなと思ったんだ。これは、紫なんだけど、結構赤いよね。これが終わったら、又、緑にするんだ。」

 私は言った。

「万年筆それ自体は、平凡で地味な方が好きなんだ。何故かね。余り派手なデザインの軸は、書いている時に主張し過ぎて鬱陶しく感じるんだ。」


彩愛: 「インクの色と言霊の関係って有るのかしら?」


由紀: 言霊に関して、彩愛と文隆には共通認識が既に出来上がって居るらしい。私も、その輪の中に入りたい。

「言霊、ね。文隆の言う処の『言霊』って何?説明責任を全うせよ。」

 文隆と呼び捨てにしても、皆が極めて自然な雰囲気のままで受け取り、心地良い。恰も昔からずっとこんな感じだよと言わんばかりに。


文隆: 「言霊は言葉に宿る霊力であると辞書には定義されている。だが、どうやら私にとって言霊はもう少し大きな存在らしい。」

 私は昼間に『言霊』の話しを彩愛としてから、その言葉を頭の中で少し整理し、熟成する余裕があった。

「言霊は、僕と言葉の仲立ちなんだ。例えば、この言葉を使えとか、この字はこう書けとか、導いてくれる意思と言うか、知性と言うか。字に習うって、畢竟、言霊に習うって事なんだと思う。」


由紀: 「仲立ち。でも、結局自分自身よね。」

 私自身、昔より、理論で武装しようと懸命だった頃より、随分と柔軟になっている。歳を重ねて妙な拘りが溶けて無くなったのだろう。


文隆: 「理性的に考えればそうだけど、ヒラメキってあるじゃない。何の脈略も無く唐突に出て来る閃き。あれは、自分であって、自分では無い様な気がする。時々ね。」


彩愛: 「分かるわ。それ。」

 私は、何か共感出来るものがあった。


由紀: 「彩愛のヒラメキは有名よね。」

娘の余りにオカルトじみたヒラメキも、何回か見ている。


文隆: 「彩愛の、質問に戻ろう。」

 私は苦笑する以外に無かった。

「言霊とインクの色ね。関連付け様と思うと、関連付けられる。」


由紀: 「シネスシージア?」


文隆: 「共感覚ね。僕は、共感覚を持って居ないから分からないけど。インクの色に意味を込める事も出来るだろうね。」

 私は答えた。


彩愛: 「共感覚って、あの共感覚?」


文隆: 「そう、あの共感覚。持って居る?君は持って居そう。」

 私は彩愛に言った。


彩愛: 「私には無い。何で私が持って居ると思うの?」

 私は疑問だった。ただ、共感覚の持ち主は、一般に優秀だとの印象だから、一応褒められたのだと解釈した。


文隆: 「否、ただ何と無く。」

 五感の全てを晒して生きている鋭い娘だ。生きて行くのが辛いのではないかと心配になった。

 由紀は、こんな娘を育てるのも大変だっただろう。


彩愛: 「兎に角、文隆さんの書を見たい。」

私は、社交辞令では無く、本当に観たいと思った。興味深い男の書。一体、私は何を見出だすのか。見出し得るのか。


由紀: 「文隆は、一体、何を思って書くの?どうして書道を始める気になったの?」

誰もが彼の字は雑だと評したが、私には解っている。彼の思考は、文字より速い。ただ、その場その場の刹那に全てを集中させる事が出来ない。そして、恐らく、今も。


文隆: 「先ず、始めた切掛けから話すね。」

 私は、そう言いながら話しの構成を考えた。

「昔から字が下手だと散々言われ続け、耐えて来た。しかし名筆と絶賛される書も、大体の人間は読めない。僕と能筆家と呼ばれる連中の違いは何なのかと知りたかったんだ。そして、もう一つは和の習い事にじっくり腰を据えて取り組みたかったんだ。」

 そこまで言うと、私は束の間、目を閉じて次の答えを構成した。

「僕が何を思って書いて居るか、ね。」

 それは、言葉にするのが難しい。


文隆: 「練習中は、色々と技術的な事を考える。顔真卿の楷書を理想としてね。でも、本番の時、清書をする時は、空っぽになる様にしている。」


由紀: 「空っぽ。」


文隆: 「空っぽになる様に努めて居る。そして、言霊に筆を任せるんだ。」


由紀: 「文隆の作品を観たいし、それよりも何よりも、書いている文隆を見たい。」

 私にとって、夢中になっている人間程魅力的な存在は無い。

「文隆が夢中になって居る姿を見て居たい。言霊に筆を任せて居る姿をね。」

 彼が何かに熱中すると、独り言を呟いたり、絶叫したりする。事情を知らない者には、かなり刺激が強い姿だ。今もそうだろうか。

「彩愛は吃驚しちゃうでしょうね。」

 由紀は、何故か自分の方が娘よりこの男に詳しいと誇示しておきたいと思う。そして、そう思う自分に、大きく戸惑う。


文隆: 「何時でも連絡して。」

 二人とも、そこまで本当に観たいのだろうか。一瞬の疑いが頭を横切る。

「歯に衣着せぬ、正直な感想、批評を聞かせてくれ。こっちは良い字を書けるようになりたいんだ。趣味と遊びは峻別する種類の人間なのだ。」

 しかし、嘘でも良い。彼女等の好奇の的に成り得たのが嬉しかった。

 二人が私の書にどの様な反応を見せるか、胸がときめく程に待ち遠しい。


彩愛: 私は、この男の底知れぬ魅力に包み込まれて、安らいだ気分になっていた。自他共に認める面喰いの母親が、何故、お世辞にも美男とは形容し難いこの男に強く惹かれたか、良く解った。自分と同年代に、この様な男が居れば良いのに。


文隆: 私は、彩愛が自分に興味を持っているのを感じた。そして、私も彩愛に対して強い感心を持った。

 微妙に自分とは違う感性と、使う言葉の感覚が面白い。妙な本も能く読み込んでいる様だ。

 全く、面白い展開になっていた。


彩愛: 「お料理が、和歌みたい。余韻まで強弱があって素敵。」

 私が言うと、お皿を下げる中嶋さんの顔が一気に緩んだ。何よりも嬉しいお言葉です、と。

 やばい。魂の根底を突いた。


文隆: 「主人や女将が喜ぶよ。」

 中嶋さんも大きく頷く。私は由紀を見た。素晴らしい子育てだと、思いっ切り褒めた積り。


文隆: 「彩愛は素晴らしい感性の持ち主だな。」

 私は、矢張り、きちんと言葉に出すべきだと思った。

「母親が良かったんだろうな。」


由紀: 我が娘ながら、大したヤツだ。私は照れ笑い。

 誇らしい思いも、隠さない。


彩愛: 「ところで、このお店に来る途中に見た、このお店の隣の隣にある鳥居、気付いたかしら。」

 私は、二人に尋ねた。

 文隆は見たと言い、ママは反対側から来たから幟旗だけを見たと言う。


文隆: 「ああ。有楽稲荷だ。織田有楽斎の所縁で、止事無いお稲荷さんだそうだ。ここのお店に来ると、大体前を通るからね。」

 私は、自分の体が重くなった件には敢えて触れなかった。

「これも何かの御縁だから、帰りにお参りしよう。」

 私が言うと、彩愛は嬉しそうに頷いた。何故そんなに嬉しいのか私には分からない。


由紀: 「私、地図を見ている時に、お稲荷さんの場所は見つけていたの。いざとなったら、目印にしようと思っていたから。」

 私は京都の、祇園の雰囲気に呑まれている彩愛を愛おしく思う。


彩愛: 「日本料理の品数って、陽数になるの?」

 私は、板さんが坪庭を囲む廊下で、七輪を用いて焼き物を仕上げる様子を楽しみながらママに尋ねた。


由紀: 「基本的にはね。独創的な料理屋さんでも、陽数は守るっているわね。知る限り。」

 私は言った。この商売に入ると決めてから、料理屋でメモを取り続けている。


文隆: 料理は古典に拘らない、見事な味と構成で進み、質は勿論量的にも非常に充実して居た。正直、私は一般に高級店は好まない。ただ、己のアイデアをしっかりと形にして出して来るこの店は好きだ。

 最後の抹茶を堪能しながら、これで眠れなくなるかもしれないと思って居た。食後のコーヒーも、問題だ。ここ数年、滅法カフェインに弱くなっている。

 しかし、眠れなかったとしても気楽な旅行中だ。何も困らない。


由紀: 最後の食事まで美味しく、菓子まできちんと手を抜かない。店の格を考えれば当たり前かも知れないが、客を満足させる事が即ち自分達の満足なのだろう。

同じ業界に身を置く者として共感するし、尊敬もする。


文隆: お供が参りましたとの声を聴いて、私と親娘は店の前に立った。

 女将と主人、そして仲居が見送りに出て居る中、忙しい三人を待たせてお稲荷さんに詣でるのも気が引けた。

 私は由紀と彩愛に車に乗れと言って急かした。そして、店の皆に厚く礼を述べて私も車に乗った。

「ね、ここの直ぐ側で、ちょっと広い場所があったら車を止めてちょっと待っていてくれない?そこのお稲荷さんにお参りしたいんだ。女将さん達を外に待たせるのは気が引けてね。」

 私がお願いすると、初老の運転手さんは快諾して下さった。


彩愛: 数十メートル進んで角を曲がり道が若干広くなった所で、突然激しく雨が降り始めた。

「雨!」


由紀: 「これって、明日出直せって事?」

 私は笑う。


彩愛: 「今行っても、びしょ濡れになって、しかも、真っ暗なだけね。残念だけど。」

 私は言った。写真を撮って、おじいちゃんにも見せて確認したい。


文隆: 「じゃ、このままホテルに帰ろう。」

 私は言った。


由紀: ホテルに戻る間、運転手さんは、気持ちの良いバリトンで話す。

『二年前、梅と桜が同時に咲きましてね。なんだか、この世で一番美しい情景を観て仕舞ったって気になりましたよ。もう私も終わりですかねぇ。』

粋な事を言う。今日の妙な天気の流れから、そんな話しをしてくださったのだろう。

そんな気の利いたセリフを吐く貴方の様な方が、さっさと人生に幕を引いて締まったら世の中、全くもって面白く無いと私は返す。すると、運転手は機嫌良く大笑い。


彩愛: 見ている方も一緒に笑いたくなる様な大笑いをする男って好き。顔全体で笑顔になれる男が、好き。好きな事に、何時迄も少年の様に没頭出来る男って、素敵。

 私は思った。

 醜男の笑顔の方が、美男のそれより味わい深いかも知れない。

 大体に於いて、私に言い寄って来る男は、自分の外見にある程度自信を持った男ばかり。美男は、モテ過ぎるから最後の最後、どこか信用出来ない。いつでもどこでも他の女性に乗り換える選択肢が有る。だから、安心出来ない。ガールズ・トークでは良く出て来る話題だ。

 アイツを含めて。実際、アイツは以前相当に女性関係が派手だった。噂では無く、事実として私は知っていた。

 だが、アイツは私との出会いが、彼自身を変えたと言って居た。

 本当だろうか。未だ、私はアイツに対する警戒を解きはしない。私はそんなに甘い女では無い。


彩愛: 「私、やっぱり戻る。」

 ホテルの車寄せに降りたその瞬間、抑え難い衝動に駆られた。どうしても雨の夜に行かなければ本当の所は分からないと思った。少なくとも、今戻れば、あの夜のおじいちゃんの視線で探す事が出来る。

「フロントで傘をお借りして。」


由紀: 「何?何処へ戻るのよ?」

 全く、彩愛には驚かされる。


彩愛: 「さっきのお稲荷さん。」


由紀: 「どうして?夜、雨が降っている中?」


彩愛: 「出来ればママにも来て欲しいの。」


由紀: 「何故?」

 この訳の分からない娘の我儘に、不思議と心が沸き立つ。


彩愛: 「理由は後で話すわ。」

 ママの顔に、笑顔が浮かんでいた。一緒に、ちょっとした冒険をする気になっているのがわかる。


由紀: 「行くわ。何だか、面白そう。」


由紀: 「文隆はどうする?」


文隆: 「一緒に行くよ。この流れでは断れないだろう。」

 正直、私も、あのお稲荷さんには何かを感じた。だから、それを確かめたいと思った。


彩愛: 「暗っ。何も見えないわね。」

 三人でお稲荷さんの前に戻って来たが、結局、真っ暗。雨は小降り。

 私は鳥居の前に立ち、手を合わせた。


由紀: 「成る程、止ん事無い雰囲気の有るお稲荷さんね。最近、改築されているのかな。」

 然程、年月を経ている様には見えない。

「結構、新しいわね。」


彩愛: 「そうね。それだけ人々の信仰を集めているのね。」

 おじいちゃんに見せても、分からないかも知れない。

 何かが『ここだ』と私に訴えているのだが、頭で考えると分からなくなる。


彩愛: 「分からない。分からないだろうな。」

 私は独り言ちた。

おじいちゃんの話しから得た印象からすると、ここは立派過ぎる。もっと小さなお社を想像していた。彼が実際に目にした、改築前はどうだったのだろう。


由紀: 「何言ってんのよ?」

 私は呆れる。


文隆: 「さ、帰ろう。四条通りに出てタクシーを捕まえよう。」

 私は言い、歩き始めた。これから京都に来る度に、ここに御詣しようと決めていた。

「何だか、気に入った。妙な言い方だが。」

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