真由美との別れは千駄木のオフィスで。二月。

文隆: ガラスの扉を叩くのは真由美。傘を畳む姿がいつになく苛立って居る様に見える。

 私はサラダの準備を中断して、ドアを開けた。

 微妙に硬い表情のまま彼女は入って来た。


成瀬真由美: 「十五人に一人だったっけ?貴方の言う世の中のバカの比率。」

私は溜息を吐いて、自分の中に溜まった苛立ちを文隆のオフィスにぶちまけてやった。やってしまってから慌てて見回し、彼のスタッフが既に誰も残って居ない事を確認する。肩から降ろした革のトートバッグがテーブルで硬質な音を立てた。タブレットの角が当たったのだ。防水加工を施した革の上を水玉が滑る。

「その十五人に一人ばかりが私のクライアントになるの。何故?」

 私の言葉を、文隆はいつもの様に笑顔で受け止めてくれる。

「その上、雨が降るし。」

 そこまで言ってしまうと、胸がさっぱりした。

 くだらない苛立ちをコートと一緒に脱ぐ。

寸胴鍋にお湯を沸かして居るから、今宵は彼が夕食を作る気なのだろう。


文隆: 「何やら荒れておりますな。」

 私は、彼女を揶揄いつつ、キッチンに戻り夕食の支度を続けた。

「思ったより早かったね。」

実際は、壁の時計を見ると、特別早かった訳では無い。此方の精神的な不安からか、時の進みが解らなくなっていた。

 四十五分程前、真由美が、今オフィスを出て、これから此方に向かうと電話を掛けて来た。一緒に夕食を摂ろうと言うのだ。私は、今夜に限れば、敢えて他人の目と耳に囲まれるレストランへ行かず、オフィスのキッチンで料理をする方が良いと思っていた。今宵は色々と込み入った話しになる可能性が高い。しかも、彼女の早口から察するに、必ずしも上機嫌って状態では無さそうだった。

 丁度都合良く、残って居た二人のスタッフも帰り支度を始めて居た。

私は、買い出しには充分な時間が有ると判断し、例えば、サラダとパスタ、そして、チキンをソテーし白ワインとマスタードのソースを掛ける等のメニューを想定し、食材を揃えたのだ。更に具体的な調理法は、真由美と話しながら決める積りだった。

「本日出来ますもの。サラダ、お好みのドレッシングで。白バルサミコを使ったものがオススメ。パスタ。アマトリチャーナか、カルボナーラ。メインは、鶏肉のディアブロ、若しくはクリーム煮。」


真由美: 「間違いなくディアブロ。」

彼が時間を掛けて作るチキンのソテーが好きだった。皮がパリッパリッに香ばしく焼き上がり、鶏肉の美味しさを存分に堪能出来る。私は彼が提案した今夜のメニューに気分を良くした。ただ、パスタはオリーブ・オイルをベースに、胡椒を効かせたシンプルな一皿をリクエストした。昔は、それにたっぷりとチーズを振っていたが、今は流石に控える。襲って来る年齢の勢力を削がなければならない。

「美味しいものを食べるのが、最高のストレス解消になるわ。」

 私は、キッチンに入ろうとしたが、文隆がテーブルを指差した。今夜は、私は食べる専門で良いらしい。


文隆: 私は、自ら編み出した特製ドレッシングを調合しながら、昔の恋人である由紀と再び縁が結ばれそうな事、そして再会後に期待されるまろやかな展開に付いて、どう話すか考えて居た。

 敢えて由紀の存在を知らせずに真由美との関係を続けるのも一つだった。バレるまで突っ走る。その方が、大人で、賢い。

 此方の事が決定的に進んで仕舞う前に、真由美が自ら離れて行くかも知れない。その可能性に賭ける。か。

 しかし、そうやって自分は結婚をダメにした。真由美を相手に、同じ失敗を繰り返したくは無い。返ってお互いの傷が深くなる。


文隆: 「この前、大学生の一団と話しをするって言ったでしょう?そのメンバーに、誰が居たと思う?」

 私は極めて平凡に話しの口火を切った。と、言うより思わず口を突いて言葉が出てしまったのだ。私としては珍しい展開だった。しかし、現状、何も包み隠すべき秘密など無い。


真由美: 「息子さんの恋人。とか?」

 私は山勘で答えたが、既に自分の中の一番鋭い感覚が、いつもの文隆とは何かが決定的に違う事に気付いていた。その違和感が、居心地の良いこの男の隣が既に自分の物では無くなって仕舞ったのではないかと匂わせて居た。私は、漠然と、しかし確実に防御姿勢を取る。


文隆: 「違う。僕の大学院時代の恋人の娘さん。」

 私は可能な限り軽い口調で、最近の面白い出来事の一つとして、大学院時代の恋人の娘と偶然に会ったと話す積りだった。

 その軽い口調が、返って事の特殊性を強調してしまった様だ。

 彼女は、事態が如何仕様も無い速度で転がり始め、私の中で楽しい思い出が現実的体温を持って目を醒まして仕舞ったのだと勘付いて居た。

私には、それが手に取る様に判った。

 バレている。既に。完全に。

私は緊張した。

笑顔を作る。


真由美: 「貴方の事だから、都合良く私との関係を保ちたいなんて思っているんでしょう?」

 私は全てを悟って、先に言葉でひっぱたいてやる。努めて普段と変わらない表情で、いつもと同じ声。どうやら私にはそれが出来る芯の強さがあった様だ。自らの演技力に感心する。大したものだ。

 元恋人との再会がそう遠く無い未来にある。それを心待ちにしている。この男は、何度女性問題を繰り返せば気が済むのだろう。

 それでも、少なくとも、文隆は正直に話している。新しく古い恋人の登場を。この男は、そうして不要な時にだけ不要なまでに正直に生きる正真正銘の馬鹿だ。

 頭では文隆とはお互いを束縛しないと約束しているが、心はそこを理解出来なかった様だ。動揺している。ただ、ここで取り乱した自分を見せても何の得にもならない。

 もうこの年齢で、離婚も乗り越えて居る。この程度では冷静さを失わない図々しさは身に着けていたらしい。


真由美: 文隆は便利な存在だった。一人での食事が寂しくて仕方ない夜には、気軽に呼び出し、若しくは二人で彼のオフィスの、このキッチンに立ち、軽い世間話をしながら料理をし、夕食を楽しむ。私にとって大切な心地よいひと時。

 彼を失う事よりも、自分にとって掛け替えの無い安全地帯を失う事が怖い。哀しい。逃げ込める場所を又、失って仕舞ったのだ。今までの安穏とした関係が終わるのが寂しかった。

 しかし、もう違う将来を考えなければならない。

幸いにして、私に必要な現実逃避の場を心地良く提供してくれそうなお気に入りの男は未だ居る。複数。その中でも特に一人、居る。次は既に用意出来ているのだ。私も十分に狡いのだ。


真由美: だが、彼に寄り掛かるには、生活力があるのかどうか不安が付き纏う。何が悲しくてこの御時世に小難しい古本ばかりを集めて売って居るのだろう。そんな時代遅れの男に、財力は期待出来ない。

 一緒に旅行に出ようと誘っても、彼が経済的負担に耐えられるかどうか心配なのだ。


真由美: だが、彼はビジネスの世界で出会う他の男達とは決定的に違う。彼が古書店の奥まった角に置く傷だらけの質素な机は、妙に落ち着く。懇意にしている作家が譲って下さった物で、長い年月を掛けてコーヒー・マグが作った丸い跡が執筆に費やした時間と苦悩を象徴しているのだと彼は熱っぽく語る。

彼は、私が先日発注したジュリアン・グリーンの作品集も、来週末には揃うとメールを寄越したばかりだ。

『時代遅れで結構。誰かがやらなければならない仕事だ。』

 あの男は言う。自分はこの仕事を心底楽しんでいると。

 今時、流行らない男である。故に廃らない。


文隆: 元恋人の娘に会ったと話しただけで真由美が全てを悟ってしまったのには、正直、私は驚いた。自分が事の仔細を話さないで済み、安心したと同時に、自分が全く信用されて居なかったという事実にも少なからず衝撃を受けた。ちょっと昔の恋人の匂いを漂わせただけで、直ぐに私の不貞、心変わりを疑われて仕舞ったのだ。

 私は今、何をどう話すべきか、話題を探った。

 未だ由紀との再会すら果たして居ないのに、一気に状況が変化して仕舞ったのだ。ただ、この段階で真由美との恋愛劇に幕を降ろすのは願っても無い展開だと言える。少なくとも、彼女が先に終止符を打ってくれたのだから、都合が良い。

 しかし、今、圧倒的な寂寥感が己の尾骨から全身に広がって行く様を、私は味わっていた。


真由美: 「そう。無理よ。それが当然の展開よね。新しい恋人、古い恋人と言った方が適切なのかしら、彼女に私達の関係を理解させようと思っても難しいでしょう?何だか残念だけど。」

 私は肩を竦め、大きな溜息を吐く。

「予想はしていた。以前、私に話してくれた方よね。大学院時代の恋人。」

 こうなると、あの古本屋の机が堪らなく暖かく、愛おしく感じられる。


文隆: 私は、真由美の言葉を聞きながら、確かに当然の帰結だと諦めて居た。

「二度目の離婚をした様な気がする。」


真由美: 「あら、三度目の離婚でしょう?」

『離婚は二度した。最初の離婚は、大学院時代に付き合って居た件の恋人。正式な結婚と離婚は、春海との一度だけ。』

 そんな文隆の昔語りを覚えて居る。その大学院時代の女性に対して、彼は気持ちを燃え上がらせている。単純な男は、それを隠し通す事が出来ない。

 私は、文隆のいい加減さを如実に見た。大学院時代の彼女、春海さん、そして私。

たった今、彼は、無意識に最初の離婚は復縁によって消滅したと宣言したのだ。


文隆: 「まあ、そうだった。」

 私は純粋に間違えていた。そこを指摘され、苦い痛みの波が胸から広がった。そう。そもそも、真由美との関係はお互いを縛らない約束から始まって居る。本来、離婚に数えるべきものでは無い。

 彼女も、私同様に離婚を経験し、現在の深入りし過ぎない男女関係に満足していた筈だ。それでも、事情は単なる茶飲み友達より稍込み入ったものになって仕舞ったのは自然の成り行きだった。

 しかし、今、その都合の良い関係に、決定的な問題、由紀が割り込んで来た。

 真由美は敏感にその危険を察知し、私との距離を取り見事に自己防衛に成功したのだ。


真由美: 「仕方無いわね。」

 私は、そう溜息混じりに言いながら自分の中に怒りとも、寂しさともつかぬものが芽吹き、育っているのを感じた。結局、文隆も他の男と同じ、いい加減だった。単純にそれだけだ。

「私が、貴方にとって何者なのか、何者だったのか、自分を自分に説明しなければいけない関係って、納得出来ないわ。それに、面倒。」

 吹っ切れて来た。ただ、何か言ってやらないと気が収まらない。

「これでお終い。そうじゃなければ、貴方の恋人に失礼よ。礼儀。彼女に集中して。そうじゃないと、また、失敗るわよ。」

 私は、これからは古本屋と究極の恋愛小説を探す事としよう。

「私は私に専念する。」


文隆: 真由美には、言い寄って来る男性の一人や二人は居るだろう。私より、魅力的な男も当然、居るだろう。知性、感性を研ぎ澄ませた男が。そして、その彼と燃え残った何かを温めれば良いのだ。


真由美: 「お互いに都合の良い関係だった。楽しかったわ。貴方との時間。」

 ふと自分の顔に笑みが浮かんだ。

「こうなると或る程度予想して、覚悟は出来ていたけど、実際にこの時が来ると、複雑ね。お互いを縛らないって約束だったけど、やっぱり複雑。ただ、その方とは私が貴方と知り合うずっと前からの縁だと思えば、何と無く救われるわ。」

 私は嘘を言った積りは無い。


文隆: 「ありがとう。」

 この場に於いて誠に陳腐な言葉が出て仕舞った。


真由美: この男は、手の施し様が無い程のカス。何故この男に惚れて仕舞ったか、今となれば全く分からない。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。


真由美: ただ、思わず私に対する礼を述べたこの男を憎む気にはならない。


真由美: この男には何故か女の気配が絶えない。世の中には愚かな女が多いらしい。もう、十分でしょう。私は、もう、この男に疲れた。

「じゃあ、帰ろうかしら。」

 私は立ち上がり、コートを着た。


文隆: 「えっ?食べて行かないの?」


真由美: 馬鹿。莫迦。バカ。ばか。

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