彩愛と仲間達、沖田文隆のオフィスを訪ねる。一月。

文隆: 私は、ドアを開け、男女二人ずつの大学生達を迎えた。

その時、一人の女性に目を奪われた。胸に、軽い痛みが走った。その美しさが、誰かを想起させたのだ。

 そう、私は彼女が誰だか知っている。心の中で言った。

 本当にレストランをそのままオフィスにしたんですねと、若者達は入るなりカウンターの向こうに広がる充実した厨房施設を見て感心して言う。


彩愛: 眼。坊主頭。白いシャツにブルー・ジーンズ。歩き易そうなブラウンのカジュアルな靴。確かに、ちょっと他の人とは空気が違うかしら。包容力が有るけど、何処かで高く厚い壁を作る人。そんな第一印象。大体において、頭の良い人ってそんな感じ。腕時計も、指輪も無い。装飾の一切を切り捨てた男。それが、似合う。映像で見る彼と、実物とは、かなり懸け離れている。


彩愛: パパとお洒落の方向性が、歩く道が全く違う。


文隆: 「そう、会社を起こした頃に、偶々レストランの空き物件を知人に紹介して頂いてね。仕事と食事を一気に片付ける事が出来るなんて最高だと思ってさ。泊まり込みにも対応出来る。」

 私は、笑った。

「このビルのオーナーが、僕の事を気に入って下さったから今でも格安の賃料なんだ。コスト面を考えると、キッチンの床面積が無駄になるのだけど、私のスタイルには合って居る。」


文隆: 複数の大学から集まった学生達が作るヴェンチャー・ビジネス研究会が、話しを聞きに来たいとメールを寄越した。もう数ヶ月も前だ。

 その文面と、大学の枠を超えて集っている会だと聞いて、何と無く私も興味を唆られた。多種多様な団体から様々な形で依頼が来るのは稀では無い。しかし、このケースは初めてだった。あくまでも、私の知る限り、だが。

私は、仕事が立て込んでいるから日程に関しての相談は遅くなるが、インタヴューは喜んで受ける旨を伝えた。

彼らは無視されなかった事に大変感動したと返事をして来た。

 私は、後日、週末の定休日で申し訳ないがと前置きし、都合の良い日程を知らせた。その上で、日常の姿を見たいから普段通学する際の服装で来る様に伝えた。更には、手土産等の気遣いは一切不要だと念を押した。

 それから三週間経ち、私は熱心な若人達とオフィス奥の個室に据えた大きな楕円形のテーブルを囲んだ。期待通り、学生らしい格好。揃えた様にブルー・ジーンズ。皆、ダウンのジャケットだったが色も形も違う。そして、他は全て個性的だった。

 私の前には学生達の名刺が並んだ。

彼女は川端彩愛。決して珍しくは無い姓だ。

私は、由紀が既に離婚して旧姓川端に戻っているのも風の噂で知って居た。

川端由紀。娘が居るとも聞いていた。

私の直感は、どうやら間違えて居なかった様だ。


文隆: 一人が小さな包みを取り出し、皆で焼いた胡桃入りのブラウニーですと言った。

 私は声を上げて驚いた。ナッツとチョコレートは大好物。差し詰め何処かの雑誌記事で私の好みを調べたのだろう。彼らなりの精一杯の誠意は、何よりも嬉しかった。

「早速、皆で食べよう。美味しいコーヒーがあるからさ。」

 私は、スタッフの居ないオフィスで湯を沸かす。

 若者達が手伝いを申し出てキッチンまで追って来たが、実際、割り振る仕事が無い。

「我が社では、コーヒーを飲みたい奴が自分で淹れるんだ。社長だろうが新人だろうがね。」

 私は笑った。

「勿論、来客の際は手の空いているスタッフがお茶出しをする事になるけど。」


文隆: 私は若者達の質問に答えて、自分が会社を起した際の経緯などのドタバタを面白く話した。事実、カオスだった。学生達も実にリラックスして居ながら、誠に真剣だった。

 将来の展望を訊かれたが、こればかりは正直答えるのは難しいと言った。結局、誰も千里眼を持って居ない。己の信ずるところをシャカリキになって頑張るしかない。その先は運だ。他に方法が有るのならば、此方が教えて頂きたい。

「仕事を楽しめ。それより更に大きく人生を楽しめ。」

 私は言った。自分の、非常に簡単な信念だ。

「しかし、このブラウニーは美味い。有難う。」


文隆: 「ところで、このインタヴューの言い出しっぺは誰なの?」

 私は純粋な好奇心で尋ねると、私ですと言ってリーダーの四年生が手を挙げた。どうやら話しを聞きたいヴェンチャー起業家をアイウエオ順にリストアップしたら、私が一番上だったということらしい。

 そして、コンタクトを取ったら、思いの外すんなりと受け入れてくれたと純粋に喜んでいた。

「私が駆け出しの頃、色々な先達に面会を申し込んだら、結構熱心に相談に乗って下さる方々がいらっしゃったよ。この世知辛い社会も捨てたモンじゃないと思ったね。」

 私は笑った。


文隆: ブラウニーの細かな破片が白い皿の上に点々と残り、コーヒーが無くなって、マグの底に輪を作ろうかと言う頃、四年生のリーダーが、質問事項の全てを終えたと言って頭を下げた。すると、全員が立ち上がって頭を下げた。それを見て、私はコーヒーのおかわりを勧めた。

「暇なら、雑談しようぜ。僕にとっては、とても有意義なんだよ。若者と話しをしていると、新鮮なんだ。言語的な側面、そして洋服、持ち物の選び方など、勉強に、刺激になる。」

 いきなり砕けた口調で話し始めた私に、学生達は笑った。


文隆: 学生達が今度こそと辞して立ち上がると、私は彼らをドアまで見送った。

街は既に逢魔時。

 帰って行く学生の列、川端彩愛は意図的に最後尾に付いた様だった。

 明らかに彼女が話し掛けられるのを期待しているのだ。

「もし間違えて居たら失礼。若しかして、君は川端由紀さんのお嬢さん?」

 私は、自分の心拍数が上がっているのが可笑しかった。


彩愛: 「ええ、覚えて居て頂けたんですね。」

 私は振り返り、沖田文隆を見上げた。この角度で、ママはこの人を見上げて居たのだと思うと、非常に不思議な感慨に囚われた。


文隆: 「これは嬉しい偶然だな。」

 本当に、嬉しい偶然だった。彩愛は、由紀に比べて筋肉質だ。健康的なスポーツ万能系か。それでも、若し、彼女と街中で擦れ違ったとしても、私には直ぐに判った筈だ。彼女が由紀の娘だと。

 全身から漂う印象が、笑って仕舞う程、母親譲りなのだ。


彩愛: 私は、顔全体で笑顔になる男だと、表情の豊かな男だと思った。成る程、彼には美醜を超えた魅力がある。間違い無く笑顔は魔法なのだ。

「本当に。沖田さんが母と同じ大学だと存じ上げていましたが、お互いが知り合いだったなんて。」

 私は、努めて控え目に言った。

「未だに万年筆のインクはブラウンです。」

 私は二人の間に何が有ったか十分に知って居るとのだと匂わせた。ちょっと悪戯な物言いだったかしら。


文隆: 「ブラウンのインク。彼女の文章は、言い回しも独特だったな。」

 成る程。あらましは伝わっている、ってことか。

 あのブラウンのインクで認められた自分の名前を、又、目にする日が近いかも知れない。

若い頃、彼女からの手紙は直ぐに解った。文字の色と、独特の言い回し。

「彼女、由紀さんはお元気ですか?先日、彼女のブーランジェリーとケータリング・ビジネスに関しての記事を読みましたよ。」

 私は彼女の、手を広げ過ぎない真摯な姿勢が好きだった。彼女らしい。食品業界に進むとは思わなかったが。

 懐かしい。


彩愛: 「ええ。お陰様で、楽しく元気に暮らしております。」

 私は、文隆がママに会いたいと思って居ると確信した。文隆。私も心の中で彼を呼び捨てにして見た。


文隆: 「良かった。何よりだ。」

 私は、確かに、安堵していた。時は心の表層を洗い流すだけで、胸の底に沈んだ澱は何時迄も残る。しかし、ふとした拍子に舞い上がり、薄まり、過去に向かって散って行く。

 残ったものは、断片的で、あやふやで、全て引っ括めて美しい、掛け替えの無い思い出。それは太陽の匂いがした。真夏の太陽に焼かれて乾いた白いシャツの様な匂い。

 私は自分の胸に浮かんだこれらの言葉を笑った。何時迄も思春期のガキの様に甘い。

あ、ブラウニーを焼いて来たのは、由紀の入れ知恵だったか。

 今頃そんな簡単な事に気付くなど、全く情けない。笑いが込み上げて来た。


彩愛: 私は、やや遅れて皆に加わり、沖田文隆氏に改めてお礼を述べ、歩き出した。

 頗る興味深い男だった。

 彼と私の会話から、皆に彼とママが同じ大学だったのみならず、知り合いだったという事が知れ渡った。

 だからどうこうでは無いのだが、何となく面倒だなと思った。

 今後、事態が進展した際、私は沖田文隆をどう呼べば良いのだろうか。

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