由紀と彩愛、ケーキを食べながら。十一月。

川端由紀: 「美味しいわね。どこのケーキ屋さん?」

 私は彩愛が買って来たケーキに目を丸くする。甘いだけでなく、酸味も程よく加えられた大人の味に深みが有る。


彩愛: 「豪徳寺の商店街にある小さなお店なんだけど、美味しいの。ママのテイストにマッチすると思ってね。」

 私は、ママを苛立たせる為に態とカタカナ言葉を多用した。


由紀: 「複雑で、奥行きの有る味は大人向けね。時々買って来てよ。」

 自分の娘が流行り言葉で私を挑発している。だから、それを敢えて気にも留めない振りをしている。

 しかし、急行も停まらない駅から続く商店街にある小さな店も見逃さない、そんな若い娘達が張り巡らせる情報網の目の細かさに、私は痛く感心している。もっとも、自分の娘時代も、かなりの情報収拾能力が在ったと自負しているが。そして、更に現在は、飲食業に関わっている。美味しい店なら、細大漏らさず抑えておきたい。

 仕事抜きで言えば、この店は、お気に入りのコーヒー屋で買う豆を挽き、ドリップする楽しみを増やしてくれる。

 仕事込みで言えば、この店の味は遍く大衆に支持されることは無いだろう。


彩愛: 「今度ね、ウチのサークルで沖田文隆にインタヴューに行くの。」

 私は言った。今、ちょっと話題のヴェンチャー企業の雄だ。先輩がダメ元で申し込んだら、意外にも快諾を得たと小躍りして居た。

「ママと同じ大学よね。」


由紀: 「文隆。」

 私は目を閉じ、一瞬の間を置いて、そっと声に出す。そして、私の耳の奥に、文隆が『由紀』と自分を呼ぶ声が、少し鼻に掛かったバリトンが、鮮明に蘇る。


彩愛: 「はいっ?」

私は、珈琲を少し零した。自分の母親が目を閉じ『文隆』と呼び捨てにするその様子に吃驚し、椅子から滑り落ちそうだった。

「文隆ぁ?」

 私は思わず頓狂な声を上げた。


由紀: 「沖田文隆。懐かしい名前。」

 私は、もう一度、彼の名前を味わう様に口にする。娘ももう大人。そして、既に彼女の父親と離婚して何年も経って居る。昔の恋人の話しをしても、何の問題も無いだろう。


彩愛: 「沖田文隆を知っているの?」

 今更バカな質問だと、自分でも十二分に解かって居たが、反射的に質問が口を突いて出て仕舞った。改めて確認したかったのだ。確認しなければならない。

私は、自分の母親が沖田文隆と同じ大学ではあったのは知識として持っていた。しかし、直接顔を合わせて居たかどうかは知らなかった。彼女の入学当時、向こうは大学院生だった筈だ。同じ学部であるから、すれ違う位はしているだろうと思はっていたが、何やらそれ以上の、ときめく様な芳しい想い出が隠されていそうだった。


由紀: 彩愛の無邪気な質問に、私は思わず微笑む。先程、私は『文隆』と呼び捨てしていたと言うのに。

「良く知っている積もりだった。お互いにね。」

 私は、輪を掛けて更に思わせ振りな、重い答えになって仕舞ったと苦笑する。


彩愛: 私は、母親の大いなる秘密を知って仕舞い、束の間、言葉を失った。明らかに顔見知り程度では無かったのだ。

「文隆って呼んでいたって事は、それって、付き合っていたって理解して宜しいのかしら?」

 私は依然として驚きを隠せない。ママを相手に妙な言葉遣いが飛び出た。


由紀: 「そう。結婚も、少なくとも、私の方は漠然と考えていた。ああ、この人かなって。」

 単語一つ一つを噛み締める様に。


彩愛: 私は自分の母親、『川端由紀』に生々しい女の部分を見た様な気がした。

「ママって、面喰いだと思って居たのに。」


由紀: 「何よ、その言い方。失礼ね。」

 私は少し大袈裟に笑って見せる。

「まあ、文隆は確かに、見た目は平均を下回るけどね。でも、身長で救われるタイプよ。」

 そう。格好良い恋人と一緒に歩くという優越感は無い。ただ、彼が放出する熱には誰もが惹き付けられる。今も、そうらしい。


彩愛: 「大きいわよね?」

 私は写真で受けた印象で言った。


由紀: 「百八十丁度。ゴツイ。今でも、ゴツそうね。」

 私は、彼から、野生的なものを感じない。少なくとも、当時の彼からは。


彩愛: 「出会いは?」

 私はそこを尋ねずには居られなかった。


由紀: 「私が一年生だった頃、彼、既に大学院に居たのよ。」

 私は、鮮明に覚えている。

「大学で開催された文化人類学の講演で出会ったのよ。偶々隣に座った彼が声を掛けて来て、二人で品の良い音楽を流すカフェで話したわ。講演は、『シブイを英語で言うと?』と言う演題だったかしら。」

 文隆が『シブイ』を深く理解しない限り、英訳など出来ないと語熱心に語り始めたのよ。

九鬼周造の「『いき』の構造」に刺激された様な内容だったと記憶している。

正直、面倒臭い男。だが、知識や学問に対する真摯で純粋な姿勢は魅力的。


彩愛: 「彼は、文隆さんは自信家なの?」

 私は尋ねた。当時のママに声を掛けるとは、結構な勇気が要るだろう。


由紀: 「結局、彼が思う処を熱く語る相手が欲しかっただけで、その一心で隣に座った私に声を掛けただけだと思う。そんな男よ。」

 そこまで話すと、小さな挿話の数々が頭に蘇る。

「私が、ブラウンのインクを使う切掛けを作った人よ。」

 私は話し続ける。懐かしさが止まらない。暴走する走馬灯。

「ある日、一緒にその同じカフェで、ラモーの音楽を聴きながら珈琲を飲んでいると、突然『君は、ブラウンのインクが似合う。』って言ったのよ。」

 私は大切な、印象的な思い出の断片の一つを過去から拾い上げる。

「何故って訊いたら『ただ、なんとなく』だって。」

 私は笑う。

「『別に、色っぽい、婀娜っぽい訳じゃ無い。ただ、君が使う言葉にブラックは強過ぎる。ブルー・ブラックは余りに平凡。』彼は暫く考えてから、説明を付け足したわ。『ただ、何と無く、そう言ってみたかっただけなんだ。結局、それだけの事なのかも知れないな。観念的な何か。』」

「何だか分からない話しだった。今でも良く分からない。コーヒー・ブラウンからの連想だったのかしら。」

 私は、自分がその後、然程日数を置かずに万年筆とブラウンのインクを買い求め、今に至っている。万年筆は、それから何本も買い替えているし、インクも様々なメーカーの製品を使っている。しかし、必ずブラウン系の色と決めている。

「だから、今でも珈琲を飲むと、ふとあの時の会話を思い出す事があるの。訳の解らない事って、印象に残るわね。」

 私は込み上げてくる苦笑を隠す。


彩愛: 「何だか、可愛い話しね。」

 私は、当時の恋愛に付いて想像した。二人は、どの様にそれを育んだのだろう。


由紀: 「そう。人の印象って、時として掴み所が無いわよね。影みたい。確実にその人の影なんだけど、影だけじゃ正体を捕捉出来ない。だから敢えて、文隆はインクの色に例えたのかしら。」

 自分の言いたい事を上手く表現出来ないもどかしさ。当時の彼も、自分で言い出しておきながら収集が付かなかったのだろう。


彩愛: 「正体を捕捉出来ないって。話しがだんだん観念的になっているわよ。」

 私はママを揶揄った。


由紀: 「彼が、そんな抽象的な表現に頼ったのが、それが最初だったから。印象に残って居るの。」

 私は、言った。自分の口から出た湿度を含んだ声。『彼』とは、なんと甘やかな響きを持つ単語だろう。


彩愛: 私は、おじいちゃんに聞いた狐の話しをするなら、今だと思った。茶色からの連想かしら。

 だが、直ぐに、文隆が一緒に居る時に話した方が面白いと思い直した。あたかも、由紀と文隆が再会する前提で展開を考えて居る自分が面白かった。

「舞台回し。」

 私の口から思わず漏れ出た言葉に、ママは直ぐに反応し、首を傾げた。


由紀: 「何よ。」

 私は、彩愛が何かを企む筈だと思った。用心しよう。


彩愛: 「何でも無い。いずれ、判るわ。ね。」

 不味い。自分に画策する意図が有る事を匂わせてしまった。行動を起こす時に、要らぬ警戒心を起こしてしまう。


由紀: 「ケッタイな子。」

 文隆との再会が近い。妙なところから、予想外のところから、文隆の名前を聞き、私は無邪気に心拍数を上げている。予感。私は努めて冷静で居ようとしている。

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