花咲爺と雨狐

rhapsodist silenced

川端和一郎邸に孫娘川端彩愛が訪ねる。十月。

川端和一郎: 「この間、由紀のヤツに会った時、妙な狐のペンダントをしていたな。何時もあんな物をぶら下げて居るのか?」

 私は孫娘の彩愛に訊いた。娘の由紀が我々夫妻にした最大の親孝行は、優秀な二人の孫娘達だ。孫は思い切り甘やかして来た。だが、成長した彼女達がタカリに来るのは夕食か、書籍だけ。おねだりが少ないのは有難いのか、寂しいのか、不思議な気分ではある。妻美桜子は孫娘を連れて呉服屋へ行って一騒動起こすのが楽しみだと予々言って居るのだが、彼女等は和服には然程興味が無いらしい。

 もっとも、こう言ってはなんだが、愛理は着物が似合うだろうが、彩愛はどうも体型から向いていない様に思える。

 

川端彩愛: 「うん。ママは昔から何故か銀が好きなのよね。最近は狐と月のペンダントをずっと着けているわ。何処で見付けたのか、ちょっと少女趣味だけど、不思議と似合って居るわね。」

 私は、祖父がママのアクセサリーに気付いたのみならず、敢えて話題にしたのが可笑しかった。彼は、身に着けるならもっと大人っぽい物にしろと言いたいのだろう。しかし、彼女は、おもちゃみたいな物も見事に着こなすのだ。あの人が持つ雰囲気は、常人とは違う。

 今夜、私は、祖父の膨大な蔵書の中から、本を借りに来たのだ。サー・ウィンストン・チャーチルの『第二次大戦回顧録。』

昔から祖父母の家のトイレには小さな本棚が有り、その時々に読んでいる本が置かれていた。そこで幾度か見掛け、いつの日にか大人になったら読み通そうと思っていた。今まで借りようと思わなかったのは、如何にも重そうで、車が無いと一回で運び切れないと思ったから。

だから今日は、ママの車を借りて来ている。

祖父の書庫は実に混沌として、神田の古書店を思わせるが、彼は大まかに何処に何が有るか把握して居た。今回も、彼が予言した通り、本棚の上に積まれていた。

英語版は一般的に六巻だが、日本語版が全二十四巻だったとは知らなかった。私は、一人笑った。トイレには、その時に読んでいた数冊が置かれて居ただけだったのだ。私の読みが甘かった。本当に、これは車を借りて来て良かった。

 開くと、各巻の裏表紙に、『川端和一郎』と墨で祖父の署名が入っている。この本は読了後速やかに返却されたしと暗に訴えているのだ。

 二度に分けて玄関まで運ばなければならなかった。


和一郎: 「英語版なら六巻なんだがな。」

 私は笑った。

好きな本が有ったら、遠慮なく持って行けと常日頃から言っている。爺さんには、読み返す時間すら残って居ないのだから。

 私は、既に多くの本を友人知人に譲り、大分身軽になった。それでも未だ、孫娘に強請られる程の蔵書が残っていた事が、嬉しかったし、誇らしくもあった。彼女等は、私を知性の塊だと信じて居る。有難い事だが、私程度を知性と思われても困る。早晩、彼女等も否応無くそれに気付くだろう。


彩愛: 「英語版も持っているの?」

 私はそちらも欲しかった。チャーチルの英語は美しく、力があると聞いている。実際に原語でも読んでみたい。


和一郎: 「あれは、随分前に自称歴史家の友人に貸したまま未だ返って来ない。だが、今は電子書籍が有る筈だぞ。」

 私は言った。

「全く彼奴にアレを読み熟す英語力があるかどうか疑わしいのだが、格好付けて持って行きやがった。」


彩愛: 「電子書籍ね。調べてみる。」


和一郎: 「お前、例の鈍行列車で本を読むってのはやってみたのか?」

 先日、彩愛は、どこかの路線で、終点から終点まで鈍行列車に乗りつつ本を読むのが好きだと言う変わった友人が居ると話していた。近々、自分も試してみたいと笑っていたのだ。


彩愛: 「やったわ。ダメ。私、あれはダメ。横向きに座っているのって、結構疲れるのよ。」

 私は笑った。新宿から箱根湯本まで各駅停車を乗り継いで行ったのだが、疲れた。進行方向に対し、横向きに長時間座っているのは、結構身体に負担が掛かるものらしい。


和一郎: 「昔はね、鉄道の旅も好きだったよ。私は景色に見とれる方でね。催眠術に掛かったかの如く、呆けた目で車窓を眺めていたよ。一期一会の流れる風景は待ってくれない。」

 本は少しの間、待ってくれる。


彩愛: 祖父の書庫は宝探しの場としてこの上無い。

 ページの間から偶に見付かる彼の痕跡。蕎麦屋のレシート、硬質な紙のボーディング・パス。変色したナプキンに認められたメモ、何か、恐ろしく複雑な数式、方程式の数々。そして様々な言語の単語。

妹の愛理が発見した物も含めると、相当の数になる。

今も、手当たり次第に物を書き付け、本に挟んで片端から忘れる。昔から続いている行動様式だと分かる。

見付かったメモの類は、その都度、祖父に見せる。大抵は、意味も無い紙切れなのだが、稀にその一葉の紙片から様々な思い出話しを聞かせてくれることがある。

 昔好きだったハンバーガー屋の小さな注文票に書かれた、今は亡き友との何やら旅の日程を相談した跡。恐らく天才であった彼は、あっさりと逝って仕舞ったとぽつりと呟いた。

彼自身も既に解法を忘れた方程式の数々には、苦笑いを見せた。ただ、それでもその数式の意味する所は、多くの場合、理解し、簡潔に説明してくれた。

 飛行機で、隣の席に座った軍人の話し。孫に会いに行く老婆の隣に座った話し。様々な旅で集めたお土産話は何時聞いても楽しい。

 そして、非常に微妙な記憶の断片、傷跡。

それは、オスカー・ワイルドの大判ハード・カヴァーから落ちて来るに相応しい一葉だった。

 小さなスケッチブックから切り取られた見事な右掌のデッサン。恐らく、この手は祖父。若い頃の、シワの少ない、大きく、力に満ちた手。特徴的な小指の第二関節の膨らみ。その手首の角度から、自分で描いたか、若しくは未知の人物が、後ろから回された彼の右手を描いたのか。その場合、二人の人物の間は非常に接近していたとしか思えない。

 祖父は、右利きだ。自分の掌を描こうとすれば、左手を選ぶのが自然だろう。更に、自分には絵の才能は全く無いと自嘲して居る。加えて祖母が絵を描いたなど聞いた事も無い。

 ただ、祖父が左手で描いた可能性も捨て切れない。左手でも全く違和感無くお箸を使える人だ。それに、彼特有の皮肉で己の画才を大袈裟に卑下している事も十分に有り得る。

 しかし、それでも、私は本能的に甘い危険な香りを嗅いだ。

 祖父の手だと仮定して、絵描きが祖母でなかった場合が怖い。とっくに時効であろうが。

 正直、祖父に見せようかどうか悩んだまま日時が経っている。私には、映画の様に美しい情景が見える。

 若い男が、デッサンに勤しむ女の子を後ろから抱き締める。困った人ねと、彼女は男の大きな手を広げ、それを白い紙に黒い鉛筆で写す。彼は、それが終わるまで、じっと待っている。

 好奇心旺盛で単刀直入を旨とする愛理も、この件に関しては及び腰だ。同様の事を頭に思い浮かべているに違いない。

 何にしろ、この様なドラマは、電子書籍では味わえないのだ。


和一郎: 「お前、食べていけ。」

 私は、言った。彩愛から電話が来た時に、私は既に孫娘と一緒に夕食を摂る事にしていた。


彩愛: 自然の成り行きで、祖父と夕食を摂ることになった。祖母は友人達と歌舞伎座へ行き、彼は置いてけ堀を喰ったと笑っていた。

 彼は、若い頃から料理が趣味で、良く御馳走してくれる。お雑煮とか、ミートローフ等は絶品。特に、味わった者は皆、これより美味い物は食べた事が無いと絶賛するロースト・ビーフは伝説。

 私は祖父の横に立ち、調理助手の役割を担う。今宵、私に課せられたのは木の子と鶏肉の下拵え。彼はこれらを一緒に蒸すのだと言う。更に、サラダと予め用意していた刺身の盛り合わせが今夜の食卓を飾る。

 見れば、彼は既に日本酒を飲みながら御機嫌で佃煮を摘んでいる。お前は飲むなよと、鼻歌交じりで命じる。

 私は、ふと何故祖父がママのアクセサリーに興味を持ったのか、訊いてみたくなった。

「何故かしら。何故、おじいちゃんはママのペンダント・ヘッドに目を向けたの?」


和一郎: 「それなんだよ。そこなんだよ」

 私は、彩愛からの、この質問を、ずっと待って居たのかも知れない。

「由紀がね、小学校へ入る前だった。氷川神社のお祭りに連れて行ってね、縁日で、何か欲しいものを一つだけ買ってやるって言ったんだ。そうしたら、狐のお面を指差したんだ。」


彩愛: 「なんて古い話。そこから物語が始まるの?」


和一郎: 私は、今こそ、あの雨の夜の話しをしようと決心した。彩愛の可愛い笑顔を見ながら、話しを一方的に続ける。

「何となく、ああ、本当に娘を取る気なんだと思った。」


彩愛: 「娘を取る気?」

 私は吃驚して直ぐに訊き返した。変人の誉れ高い祖父だが、今日は殊更に変だ。


和一郎: 「でも、孫娘は大丈夫な様だ。安心したよ。」

 決心はしていたが、一体、自分は何を話し出して仕舞ったのだろうと、後悔が一気に噴き出した。


彩愛: 「何だか、酷く込み入った事情が有りそうね。ブッ魂消る用意をしておいた方が良いのかしら。」

 私は、これから祖父和一郎が一体何を語るか、予想も付かない。しかし、得体の知れない胸騒ぎがあった。


和一郎: 「事情と言えば、事情かな。込み入っていると言うか、今から考えると、勿論当時も思っていたが、少々不思議な話しだよ。長くなるから食後に話そう。」

 私は料理をしながら答えた。勝手に話し出し、勝手に中断する。ちょっとした我儘に自分で苦笑する。

夕食が終わる、それまでの間に、彩愛が忘れてくれれば儲けもの。それでも、どう話すか、頭の中で筋書きを一応整理していた


彩愛: 今日の夕食は、日本画の鏑木清方と小林古径が主な話題だった。彼の話しは何時も熱く楽しい。

 続いて最近観た少女漫画風日本画が大変に面白かったと言うのだから感性は若い。そもそも祖父の年齢など、良く分からないのだが。

 一皿一皿季節を深く味わえた。彼は生半可な料理屋より美味いだろうと自画自賛している。今日は車だからお酒の相手が出来なかったのが残念。

 祖父の方が残念がっているのでしょうけど。次は愛理と予定を合わせて来る。


和一郎: 「お前さんは、ファンタジーなんかに興味が有るか?」

 私は真面目な顔で、綺麗に片付いたテーブルに両肘を乗せた。最近、美桜子が表参道で見付けた、なかなか美味い和菓子屋の羊羹と焙じ茶が並んでいる。

何処から、どの様に話しを始めるか、悩ましいところだった。安易な怪綺談にしたくはない。だが、余り本気にしてもらいたくもない。

「本当を言うと、羊羹には煎茶の方が良かったな。眠れなくなるから焙じ茶にしたのだが。」


彩愛: 「私は羊羹と焙じ茶のコンビネーションって好きよ。でも、薯蕷饅頭とお薄のコンビネーションが最高。」


和一郎: 「熟生意気な奴だな。」

 私は、苦笑しながら話しを始める間合いを測っていた。


彩愛: 「そのファンタジーって、何?面白そう。話してよ。」

 私も、おじいちゃんの真似をして両肘をテーブルに乗せた。

私は頬杖を突くのが癖になっている。実際、イラストレーターの友人が私の似顔を描く時、頬杖を突いているポーズが多い。ここから来ているのだと気付いた。可笑しい。


和一郎: 彩愛の頬杖。どきっとする程美しい。美緒子から由紀、そして彩愛と愛理。その血の流れを如実に見る気がした。


和一郎: 「結婚して、未だ由紀が美桜子のお腹に居る頃の話しだ。」

 私は、大袈裟にせず、努めて淡々と話したかった。

「随分前の事だ。それでも、鮮明に記憶に残っている。」

 私は自分の頭を指差した。我ながら少々劇的に過ぎた身振りだった。



和一郎: 当時、私は、仕事で行き詰まっていた。何をやっても上手く行かず、正直、子供が産まれたら今後家族をどうやったら養えるか、全く自信が無かった。

 丁度その頃、同級生の宮原が京都の祇園でちょっとした食事会を開くから、顔を出せと誘ってくれたんだ。

 彼はかなりの成功者で、しかも度量の大きな男だった。会に出席すれば、最低でも顔繋ぎ位にはなるだろうと気を利かせてくれたのだ。

 気の利いた料理屋で開かれた宴は、実に品が良かった。集まった七名の方々は、皆紳士で、決して金の無い私を蔑んだ目で見る事は無かった。否、それどころか、私如きの様々な経験を根掘葉堀聞いて下さった。

 皆、お互いから熱心に学ぼうとしていた。だが、そんな中に居ても、私は劣等感に苛まれた。自分が小さな、取るに足らない男にしか思えなかったのだ。

 しかし、ここで詰まらない顔をしたら場が白けるし、何よりも宮原に申し訳ない。最後まで、私は目一杯楽しんでいる芝居をしてやった。

 やがて宴が跳ねると、私は宮原と並んで料理屋の前に立ち、参加された皆様を見送ったのだ。

 そして、最後に、私は宮原も見送った。

 友の車が角を曲がり見えなくなると、私は女将と板長に礼を言って頭を下げ、一歩、宿に向けて踏み出した。

『天晴れな男振りで御座います。』

 突然、女将の凛とした声が私の背中に突き刺さった。

 びっくりして振り返ると、女将が艶やかな笑みで続けた。

『近い将来、必ず参りますハレの折りには、是非、また当方にお運びくださいませ。本日お集まりの皆様をお誘いして。きっとね。』

 板長も、横で大きく頷いていた。

 嬉しかったね。身体が震えたよ。

私は、再び二人に深々と頭を下げて、早足にそこを去った。

最初の角を曲がると、突然に雨が降り出した。凄まじい豪雨だった。

これで良かったと安心したね、私は。一張羅の背広が台無しになるのも構わなかった。

雨が悔し涙を洗い流してくれる。誰も、私が泣いているなんて気付かない。私は自然に駆け出していたよ。

どれだけ走ったか覚えていない。不案内な京の町だ。酒も入っている。ちょっと休みたくなった。

息を切らして立ち止まる姿を他人に見られたくなかったから、小径に駆け込んだよ。そこで両膝に手を突いてゼエゼエやったんだ。何処までも見栄っ張りだったんだよ。私は。

ふと、左手を見ると御社があってね。私は、暫く、そこを見詰めて居たんだ。吸い込まれた様に、見詰めたんだ。

そして、何を思ったか、その鳥居の向こう側の暗闇に言ったんだ。

『妻は、もう直ぐ臨月だ。産まれて来た子供をお前に遣る、だから俺に成功をくれ。』

 今から考えれば、生涯で一番無茶な商談だった。

 そうして産まれたのが由紀だった。

 美桜子が、漢字一文字の方が面倒臭くないから降る方の雪にしようと思っていた。だが、私が雪だと寒々しいからと言って、由紀の二文字にしようと提案したんだ。

 それに、美桜子も同意した。

 本当は、雪と狐が余りに絵になりそうで嫌だったんだ。それで、反対したんだ。

 実際、私の仕事は、由紀が産まれてからいきなり軌道に乗った。何も知らない美桜子は、幸運の女神を産んだのだと、はしゃいで上機嫌だった。

 私は、懸命に仕事をしたから成功したのだと思い込みたかった。

 そして三年後。私は、祇園のあの店に、宮原とその仲間達を集めて宴を開いたんだ。皆さん、喜んでくれてね。特に、宮原が喜んでくれたよ。

『この男は何でも持って居たが、運だけが無かった。ところが今やどうだ、美人の奥方が居て、可愛い娘さんが生まれて、仕事も順調。此奴の振る舞い酒は、縁起物だ。美味いぞ!さあ皆、飲め!』

 あの夜の宮原の乾杯の音頭は、全く、忘れられないよ。

 宴がお開きになると、私は三年前と同じ様に、女将さんと板長と、三人で皆さんをお見送りしたんだ。

『三年前、女将が、天晴れな男振りで御座いますって褒めてくれなかったら、私の魂は折れていたよ。』

 その時、私は、女将さんにお礼を言ったんだよ。

『あら、私、そんな生意気を申し上げましたかしら。そりゃ、またお越し下さいとは申し上げますけど。商売ですからね。でも、嫌だわ、川端さん、きっと狐にでも化かされたので御座いますよ。』

女将はね、そう答えて、私の腕を艶やかに叩き、何やら意味有り気に微笑んだんだ。

その笑顔が瞼から離れない。今でも。ね。

私は、三年前と同じ様に二人に深々と頭を下げ、今後も京都に遊ぶ際は必ず寄らせて頂くと言った。

 そして、三年前、あの夜に自分が相談を持ち掛けた御社目指して、歩き始めたんだ。お礼を申し上げたくてね。ところが、正確な場所が分からない。ただ雨の中を滅茶苦茶に、只管に走りたくて走っただけだから、どの角をどう曲がったかが定かではない。

 行けば自ずと分かるだろうと軽く考えて居たのだが、全く分からなかった。妙な気分だった。

 その夜は、諦めて宿に帰ったよ。

以来、由紀の誕生日が巡って来る度に、御社の場面を鮮明に思い出すんだ。そして、もう一度、キチンとお参りしないといけないと思っているんだ。ただ、行くのが妙に怖いんだな。そう。恐れているから、無意識に記憶に鍵を掛けて仕舞っているのかも知れない。だから、いつまで歩いても辿り着けない。何とも不思議な気分だよ。

まあ、又、御縁が有れば、もう一度、あの鳥居の前に立てるだろう。ただ、未だ、その時ではないらしい。そう信じ込む以外に無い。

 もっとも、そろそろこっちの残り時間が怪しいからな。急いで御縁を結ばないとマズイとは思って居るんだ。

 あの女将も亡くなって、もう久しい。面白い人物だった。数多の栄枯盛衰を見て来ている所為か、何か不思議な眼力を持っていたよ。だから、彼女と他愛も無い話しをしていると、学ぶ事が多かった。

 兎に角、私は美桜子と由紀が幸せになる事だけを祈って仕事に精を出した。無茶苦茶に働いたよ。

 この成功は、お稲荷さんの御利益でだけは無く、己の努力の賜物だと証明したかったんだな。もし、この成功が全てお稲荷さんのお陰だったとしたら、娘を差し出さねばならないから。そうだろう?

だから、娘が何かと狐に興味を示すのが、正直怖かった。偶然なのだろうが、気味が悪かった。

 何処かで、お稲荷さんを信じて仕舞っていたらしい。面白いよ、我ながら。



和一郎: 「一度ね、美桜子が由紀の遠足に稲荷寿司を作って持たせたと聞いた時は、正直滅茶苦茶に腹が立ったよ。態々由紀を危険に晒す様な真似をしやがって、ってね。」

 当時の私は、己の身勝手さにも腹が立っていた。


彩愛: 呆然としていた。理性的で論理的な祖父の過去に、そんな不可思議な物語が隠れていたなど、夢にも思わなかった。


和一郎: これで私は、ずっと誰にも打ち明けずに、胸の奥底に秘めて居た事を全て話して仕舞った。身体が軽くなった様だった。空虚感すら生まれていた。

孫娘の顔を覗き、彼女の反応を見極めようと思った。


彩愛: どう反応すれば良いのか、私は暫く頭に言葉を並べては消していた。

「不思議な話しね。」

 私は純粋な感動をそのまま言葉にした。

「おじいちゃんの為なら、お稲荷さんも悪い様にはしないでしょう。」


彩愛: 「その女将さんにお会いしたかった。彼女には、おじいちゃんの何が見えて居たんでしょうね。」

 言葉にし易い方の感想から口にした。

 現実に男を見る目が、欲しかった。今、この歳になると、出会う男は自分の一生を左右するかも知れない。それを思うと、無駄な男は要らない。確かな選別方法は有るのだろうか。

 結局、自分の直感を信じる以外にないのだろう。


和一郎: 「お前に会わせたら、面白かっただろうな。」

 私も大きく頷いた。彩愛が女将に何を見ただろう。何を感じ取っただろうか。

 一方で、そのお稲荷さんより女将さんに興味を持った様子に、少なからず驚いた。何処にあるか分からないお稲荷さんより、実際に生きていた女性の方が面白いのだろうか。


彩愛: 「おじいちゃんの代わりに、私が探そうかしら。そのお稲荷さん。」

 私は言った。それを探し当てるのが自分の務めだし、孝行にもなると思った。もっと何かを言いたかったのだが、巧い表現が出来ない。

「京都は迷宮だから、ちょっとした冒険が出来て楽しいと思うの。」

 ゲーム感覚なのだが、何か特別な、今まで経験した事の無い現実の、御伽噺的な香りを湛えたゲームだ。楽しみだった。


和一郎: 「しかし、手掛かりは、私の曖昧な記憶だけだぞ。」

 彩愛の熱意は私にも十分に通じた。彼女なら、私より時間があるしフットワークも格段に軽い。

 やはり、彩愛はお稲荷さんに興味を示した。どういう安心か分からないが、安心した。

 私は心からこの展開を楽しんでいた。自分の昔語りを切掛に、壮大な冒険が始まろうとしている。それが、老いた自分の心を楽しませるのだ。それが、嬉しかった。


彩愛: 「大丈夫。おじいちゃんとママとそんなに深い所縁のあるお稲荷さんなら、私とも少なからず御縁が有ると思うの。だから、もし、向こうで此方に用が有れば、私を呼んで下さるでしょう?」

 私には、妙な自信があった。確信とも言える。


和一郎: 「オイ、お前まで狐憑きみたいな事を言うな。」

 私は、冗談めかして言ったが、突然、この一件に彼女が深入りして仕舞う事を恐れ始めた。先程までの沸き立つ思いは、一気に萎えた。

 孫娘まで狐に取り憑かれて仕舞う。そう思うと、鳥肌が立った。


彩愛: 私は、ウキウキワクワクしていた。ほんの一晩で、京都がまるで違う意味を持つ町になった。魔法の都。誰も知らない謎の都。

 お稲荷さんの居る街。


和一郎: 「京都なんて、日帰りだからね。旅費は出す。調査の必要経費だ。」

 確かに、彩愛の言う通りだ。お稲荷さんは、悪い様にしない。孫娘に力を貸して下さるだろう。

 もしくは、我々が揶揄われるだけ。


彩愛: 「で、ママにこの話しはしたの?」

 私は、ふと気になって尋ねた。


和一郎: 「していない。誰にもこの話しはしていない。美桜子にもね。何か、アイツの預かり知らぬ所で、私が勝手にアイツの人生に関わる重大な取引をしたとなったら、マズイだろう。」

 私は、大真面目に言った。


彩愛: 「ママに、この話しをしても良い?一応確認しておくけど。」

 本来、おじいちゃんが自ら話すべきだとは思うけど。


和一郎: 「まあ、もう秘密にしておく必要も無いだろうな。」

 自分が話すのが本筋だろうが、彩愛が話してくれるのなら、それが楽だ。今更笑い話でしかない。


彩愛: 「もう時効よね。」

ママ自身には、何か狐との縁を感じる事があるのかしら。アクセサリーを身に着ける以外に、何か特別な物を感じるのかしら。私は頭の中で想像を駆け巡らせた。例えば、おいなりさんが大好きとか。


和一郎: 「もう、御伽噺の領域だ。この神頼みの逸話を、由紀も楽しんでくれるだろうさ。」

 私は自分の人生が報われた幸運に感謝して居た。人生とは兎角儘ならぬ物だ。それを味わい、恰も遊戯に夢中になるが如くに生きている奴だけが幸せなのかも知れない。

『目出度さもちう位なりおらが春』と嘗て一茶が詠んだ。その一句が心に染みて来たのが、彩愛が生まれて来た頃か。


彩愛: 「そのお稲荷さんに関して、覚えている事って、ある?」

 私は話題の焦点をお稲荷さんの場所に戻して、より具体的な情報を聞き出そうとした。


和一郎: 「そう。それをお前さんに話さなければならない。」

 私は目を閉じ、あの時の事を鮮明に描き直そうとした。もう、幾度も挑み、その度にしくじっている。今更、目を閉じても、想い出す振りをしているに過ぎない。

「一つに、角地ではなかった。二つに、左に折れて小径に入り、左側にあった。立派な鳥居で、大きな祠か、小さな御社だ。」

 祠と社の具体的な違いは何だ。言っておきながら、自分で分からない。調べなければならない。

 私は、手元にあったナプキンに、ボールペンで『祠と社』と書いた。

 その場に立てば、あの鳥居の前に立てば、絶対に判る。私には自信が有る。だが、言葉にすると、情けない程に僅かな手掛かりだ。これなら、彩愛が探し当てる前に飽きて仕舞うだろう。そして、例え、その鳥居の前に立ち得たとして、彼女はそれが探し求めたお稲荷さんである事が判るだろうか。

「因みに、私があの夜駆け出した料理屋が嘗て在ったのは松原通りからちょっと入った辺り。祇園の南端の方だ。」

 私は彩愛が本当に探し当てるかもしれないと、期待を持ち始めた。

「これだけで探せたら、大したものだ。探し得たら、或る意味、あらゆる意味で、恐ろしい。」


彩愛: 「祇園の中?それとも外れるの?」

 私は尋ねた。


和一郎: 「そこまで覚えていたら、とっくに自分で探し当てているだろう。」

 気持ちの良い笑いが込み上げて来た。私だって、記憶を辿って探してみたのだ。幾度も。

「何しろ、こっちは号泣しながら宛ても無く出鱈目に走ったからね。立ち止って呼吸を整えるのに、人目に付かない所を探して飛び込んだ小径だ。覚えて居ない。また、覚えて居たいとも思わなかったんだな。」

 私は、孫娘に自分が号泣したなどと話す日が来るとは、夢にも思わなかった。


彩愛: 『羽澤の怪人』との異名を擅にして、人々から半ば恐れられた祖父和一郎も、所詮は人の子だった。挫折もすれば神頼みもする。人並みに様々な困難を通り抜けて来たのだと、初めて本人の飾らない言葉で聞かされた。

 私は、この男が更に好きになった。この人間への愛情と尊敬が、一層厚みを増したのだ。

「インターネットで調べればお稲荷さんの場所など幾らでも分かるでしょうけど、でも、それでは何とも味気無いわね。」


和一郎: 「まったく、お前は奇妙な子だ。」

 自分の血を引いた孫らしく、好奇心旺盛で衝動的だ。

「多分、粟田口鍛冶町の方も探した方が良いかもしれない。あの当時の宿は、あの辺りだったから。」

 私は、彩愛の目を見ながら、この娘はどの様な風景を見るのだろうかと想像した。

「お稲荷さんもさぞ吃驚するだろうな。孫娘の代参だ。」


彩愛: 「天晴れな男振りで御座います。か。」

 私は、そんな素敵で劇的な場面に居合わせたいと思った。

また突然に話題を変えて仕舞った。悪い癖だ。


和一郎: 「職業的ヨイショは聞き飽きたが、あの時のあの言葉は、失い掛けた自信と矜持を取り戻させてくれたよ。」

 私は、自分の人生を大きく変えたあの夜の、あの女将の一言が懐かしく愛おしかった。

 人は変われる。誰かの為に。自分の為に。


彩愛: 「本当に女将さんにお会いしたかったわ。」

 私は、本当に、会いたかった。


和一郎: 「そもそも、なんでこんな話しをしたんだ、私は。」

 私は、自分が歩いて来た道の大きな転換点となった出来事を彼女に話せたのは良かったと思っている。大袈裟に言えば、肩の荷が降りた。しかし、それが何故、今夜だったのかは、分からない。気紛れとは誠に分らぬものだ。

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