第10話 抗議デモと政府の対応

この様な伏線のもとで、胡耀邦は心臓発作で急死したのである。前回の周恩来の件があるので、党中央は前総書記と云いながら、一中央委員のために異例の「追悼大会」を4月22日に開催することを発表した。


4月17日、中国政法大学の職員と学生600~700人によるデモが天安門前広場へ向けて行われた。スローガンは「胡耀邦追悼」と「民主と法制(人治から法治)の要求」だった。この動きを受けて、翌日、北京大学、人民大学、清華大学の学生らもこれに続いた。規模は数千人に達したが、大半はデモ終了後、ほどなく大学に戻ったという。ただ、数百人が天安門広場に残って、7項目の要求事項をまとめた。


まとめられた7項目とは


(1) 胡耀邦の政治功績の公正な評価


(2)「反精神汚染キャンペーン」「反ブルジョア自由化」運動の否定


(3) 国家指導者とその子女の資産公開


(4) 民間新聞の発行の許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(官製でない民間発行)


(5) 教育予算増と知識分子の待遇改善


(6) デモ規制を定めた北京市条例の廃止


(7) 今回の活動の公開報道


ここには要求として出ていないが、当時の学生の卒業後の就職は政府によって割り振りされていたのである。また、文革の名残りとして、労農階層の子弟の入学が優先され、入学試験がないという閉塞状況であった。


胡耀邦の後を継いだ趙紫陽総書記はこの学生デモに対して、五四運動になぞらえて愛国的心情の発露であると理解を示し、政府当局も全てではないが前向きな検討に値すると判断していた。


この北京の胡耀邦追悼から民主化要求への動きは上海、南京、天津などの全国の都市にも広がった。また北京での学生らの動きは、中国共産党本部や政府要人が居住し執務するエリアの中南海の正門「新華門」の前の集会に発展し、李鵬総理との面会を要求し、一部学生たちは「新華門」の中へ突入しようとした。


政府当局との対話を要求する運動であったが、拡大、過激になって行った分岐点は、4・26の人民日報(党の機関紙)の社説であった。社説は、『必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ』と掲載した。学生たちの運動を動乱=反党、反政府運動と規定したのである。これは鄧小平が支持した内容であった。


追悼大会が行われた翌23日、趙紫陽総書記は予定されていた北朝鮮の公式訪問に旅立った。前回の胡耀邦の解任も学生デモの対応であった。なぜ、この時期に北京を空けたのか「甘いと」云われても仕方がない。趙紫陽は予定の外交日程を変更すると、国際的に北京の状況は深刻だ、との印象を与えかねない、それを避けたかったと後に弁明している。


でもこの空白の期間に、後を託された李鵬(総理)は、政治局常務委員会の非公式会議を招集し、学生運動を「反党・反社会主義の政治闘争であり、今回の動きを「動乱」と呼び、党中央に「動乱制止小組」を設置することを決めた」と鄧小平に報告し、これが社説に繋がったのである。


また趙紫陽の理解者であった万里(人民大委員長、日本の国会議長にあたる)が、事態を危惧してカナダ・アメリカの北米訪問について、延期を問うたときも、既定の行動で良いとした。このことも趙紫陽にマイナスに働いた。


30日北京に帰って来て詳しい事情を聴いた趙紫陽は、問題の社説の修正の必要性を感じ、その旨を李鵬首相に言った。李鵬は鄧小平の了解を得ているし、北朝鮮のあなたにも連絡を入れたと反論した。何故この時に訪問を切り上げて帰らなかったと思えるのだ。趙紫陽は八元老*の一人、楊尚昆にとりなしを頼んだが、鄧小平は会おうとしなかった。


*注 革命第一世代に属し、80年~90年代に常務委員会より力を持った存在。


鄧小平を筆頭に、陳雲、彭真、楊尚昆、薄一波、李先念、王震、鄧穎超(周総理夫人)。末尾に彼らの来歴、立場を簡単に記しておいた。

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