第8話 天安門事件・胡耀邦の追悼

六四天安門事件は1989年4月 15日の胡耀邦前総書記の死去を契機として起った民主化を求める学生や市民に対する中国当局の武力弾圧事件である。


進歩派として人気のあった胡耀邦の名誉回復(一中央委員に降格)を求める追悼は、北京の学生たちの民主化を求める運動となっていった。デモやストライキを組織し当局に腐敗反対,政治改革および民主化の実行などを求めた。4月 26日当局は学生運動を動乱として糾弾した。これに対し学生たちはさらに大規模なデモで対抗し,5月 13日から党内の意見対立やゴルバチョフの訪中を利用して,ハンストを組織し天安門広場を占拠,デモなどの街頭活動が全国の大中都市に広がった。5月 20日,当局は北京地区において戒厳令を発動し,市民および学生は戒厳軍と数日間対峙したが,6月4日戒厳軍は学生や市民に発砲し,天安門広場から排除した。その結果 300人余の死亡者(当局数)を出し,多数の指導者が逮捕され,学生運動の責任を問われた趙紫陽総書記らが失脚した。アメリカをはじめ西側諸国は中国当局をきびしく非難し,経済制裁や政府高官訪問禁止などの措置を発動した。改革開放政策は暫らく停滞せざるを得なくなった。


胡耀邦前総書記の追悼を機会として反腐敗、政治の民主化を掲げた学生運動が、戒厳令が布告され、軍が鎮圧に出動する事態にまで何故発展してしまったのか。


まずは、前年の88年の中国の状況を見てみよう。


改革開放のひずみが噴出していたのである。「まずは先に富める者から」の先富論は、カネ儲けのチャンスを掴むんだと云う熱気、原始資本主義というべき状況を生み出していた。


当時中国は統制価格体制で一つの物に市場価格(闇価格)の二つが存在した。この価格差を利用した党官僚の腐敗が横行し、民衆の反感を買っていた。腐敗防止の面からも、経済の改革開放を進めて行く上でも、価格統制(統制価格から市場価格へ)を外す必要があった。しかしこれは金利政策と連動されていず、急激なインフレを生んだ(政府は慌ててすぐに元に戻した)。これによって改革派趙紫陽総書記の政権内での発言力は低下し、改革開放に消極的な保守派の巻き返しが始まっていた。


改革開放を進めて10年、改革開放を良としながらも、先行きは不透明に感じられた。また、海外からの情報は絶え間なく入って来る。反ブルジョア民主化を云う一方で改革開放を進めて行くうえで、上層部でもある程度の政治改革の必要を検討せざるを得なくなっていた。さらに、ゴルバチョフのペレストロイカ、ポーランドにおける連帯の民主化運動が起き、社会主義国の政治の枠組みが揺らぐ予感が知識層にあった。

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