第6話 1976年の激震

1976年は中国にとってはまさに激震の年であった。1月総理周恩来が亡くなり、7月には唐山地震が起き25万人の死者を出した。9月には巨星毛沢東が亡くなったのである。江青ら文革の強硬派「四人組」と、整った工業体系と国民経済体系を完成させ「4つの現代化」を進めようとする周恩来、鄧小平ら実務派との間に権力対立が起きていた。そんな矢先の周の死であった。


4人組の働きかけによって、中央政府(華国鋒総理代行)は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止した。これに反発した民衆は死者を弔う清明節(4月5日)に天安門にある人民英雄記念碑に花輪を捧げた。北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆と取り締まり当局との間で激突が起きた。これは『反革命動乱』とされ、鄧小平は4人組にこのデモの首謀者と指弾され再び失脚、全ての職務を剥奪された。


同年10月、毛沢東が死亡し、後ろ盾を失った「四人組」の運命は尽き、逮捕された。この後の鄧小平が復活する過程で,「四人組」がこの事件を政治的に利用し,鄧小平の失脚をはかったとされ、この天安門事件は『偉大な大衆運動』として名誉回復された。この四五天安門事件は、次の六四天安門事件の伏線になっていく。


毛沢東の死によって、1966年から10年に及んだ社会的騒乱・文化大革命はようやっと終った。名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だった。それは文化面にとどまらず政治・社会・思想面にまで及んだ。毛沢東の階級闘争路線主義と自らの復権を図った権力闘争がもたらしたものであった。またそれは社会主義社会をどう作っていくのか、混迷の過程を意味した。国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらし、この間世界の発展から大きく取り残されたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る