第16話 ベトナム戦争5・ホーチミンと云う人

大国フランスやアメリカを相手にした独立戦争に果たした彼の役割を否定する人はいない。「ホーおじさん」として、国民的敬愛対象となったホーチミンと、対ドイツ祖国防衛戦争に勝った英雄スターリンとを比べてみれば、その外貌と相まって指導者像の違いが鮮明にわかるだろう。方や「羊ひげの村の村長さん」、方や「カールマン髭の軍服姿」。スターリンはソ連帝国のみならず、社会主義陣営の盟主となった。ホーチミンは社会主義者ではあったが、ベトナムの独立以外を求めなかった。結果、第2次世界大戦後の世界で代表的な民族解放闘争の指導者として世界で知られ敬愛されている。


ベトナム中部のゲアン省の貧しい儒学者の子として生まれた。父の影響を受けたホーチミンは幼少から論語の素読を学んで中国語を習得した。「仁義礼智信」という儒教的な徳目を幼くして学んだのである。

父が阮朝の宮廷に出仕するようになると、ホーチミンも父とともに都のフエに移り、ベトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学ぶようになった。しかし、在学中に農民の抗税運動(賦役納税に反対する運動)に携わったため、フランス当局に目を付けられて退学処分となった。

1911年にフランス船のコック船員としてベトナムを出国、以来世界各地を旅し、アメリカ、イギリス、フランスには長期滞在の経験を持った。これが東西の人類文明に開かれた人間の形成に役立ったと見る人は多い。フランスに於いてレーニンの「帝国主義論」に接し、植民地化されている祖国の独立への道に光明を見出す。ホーチミンのナショナリズムはマルクスレーニン主義によって国際主義的視点を得たのである。


ホーチミンは「村の長老」タイプの指導者であった。「ムラ社会」は、基本的には談合によって物事を決める社会である。そこでは条理にかなった調停を行う能力と徳こそが重要であり、強引な独裁者は望まれないということである。ベトナム人に求められる指導者像にぴったりの人物であった。マルクスレーニン主義一辺倒でない柔軟さが彼の持ち味であった。


ベトナム共産党(後のベトナム労働者党)を創設したのは彼であるが、独立を優先し出来るだけ幅広い勢力の結集を考え、小地主や民族主義者も包摂した。これはコミンテルンからすれば異端とされるであろうが、東アジアの辺境にある小国という環境が幸いした。南ベトナムの解放戦線も戦闘が激化する前はその主体性を認めていた。党は独裁であったが、個人に独裁は排除した。


戦争激化の過程でソ連、中国の援助を求めコミンテルンの方針に妥協はしたが、ベトナム独立、統一を何より優先した。アメリカの過度の干渉を嫌ったゴ・ディン・ジェムが話し合いの兆候を見せた時も前向きであった。ケネディがフルシチョフと会ってキューバ危機を回避したように、ホーチミンと会って話し合っていれば、この長い戦争は回避できたかも知れない。所詮アジアの小国で、ねじ伏せられると考えていたのであろう。

また、国境を接した中国には警戒感は怠らなかった。それには長い歴史的背景がある。インドシナ3国といっても、カンボジア、ラオスはインドムガール帝国の文化の影響下にあったシャム王国の支配を度々受けた。ベトナムは歴代中国王朝の侵攻、支配を受け、文化的には中国文化の影響が強い国であった。インドシナ3国にはそういう違いがあった。ベトナムは東洋の帝国中国と独立を巡っての幾多の戦いを経験してきているのである。


北ベトナムの社会主義建設過程での急速な国有化、集団化による失敗は素直にこれを認め、国民に謝罪をした。戦争終結に向けた動きが始まった1969年9月2日、ホーチミンは突然の心臓発作によって死去し、79年の生涯を閉じた。国民に出した檄文「独立と自由ほど尊いものはない」は彼の生涯変わらぬ信条であった。

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