第14話 ベトナム戦争3・【ジョンソン政権下での拡大】

【ジョンソン政権下での拡大】


ケネディを引き継ぐとしたジョンソン大統領は、巧みな議会工作で政策課題を実現し、社会福祉や教育制度改革、公民権法の成立に見る人権擁護を積極的に推進した政権となった。しかし外交では、ケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。


1964年8月ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍駆逐艦への魚雷攻撃(トンキン湾事件)が発生した。この事件をきっかけとして議会に北ベトナムからの武力攻撃に対する「いっさいの措置を取る」権限を大統領に与えるように求め、ジョンソン大統領は実質上の戦時大権を得た。のちに於いて、この事件はベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカ軍と政府が仕組んだ捏造した事件であったことが判明した。

ジョンソンは1965年2月北ベトナムへの爆撃を命令。そして、65年3月にダナンにアメリカ軍海兵隊2個大隊3,500人が上陸して本格的な地上戦を展開することとなった。アメリカにとってのベトナム戦争はこの時から始まった。この宣戦布告なき戦争は、結局8年間続くこととなった。


65年末には184,000人に増派し、サイゴンの政権と南ベトナム解放民族戦線との内戦という形を取った戦争がアメリカのベトナム戦争となり、ベトナム全体が戦場と化した。小刻みに増派を繰り返し68年末には遂に50万を超えた。多くの若者が暑いジャングルの中で戦い、戦死者数は66年4,000人、67年7,000人、68年は実に12,000人に達した。また1961年から1971年まで全土で散布された枯葉剤は約70,000キロリットル、72年末までに第2次大戦で米軍が使った量の3.5倍に達する爆弾総量がインドシナ半島に投下された。


アメリカによるベトナムにおける軍事活動が拡大を続ける中、ソ連、中国による本格的な支援で北ベトナムは近代兵器で増強された軍事力をもって継続的な戦いが出来る体制を整えた。

ジョンソン政権の拡大路線は「共産主義の侵略」「全体主義から自由を守れ」の冷戦の論理とドミノ理論から一歩も抜けられなかったことである。勝つことでしかベトナム戦争の終結はなく、また、勝てると思っていたのである。


北爆やアメリカ軍兵士の増強で戦争を連続的に拡大して、やがて多数の戦死者・戦傷者を出して、それなのに戦局が好転しないのはなぜかという疑問は、議会から、大学から、そしてテレビで戦場になったベトナムを見た多くの一般家庭のアメリカ国民から声が上がっていった。1967年に入ると、ベトナム戦費の増大による福祉予算の圧迫に不満を募らせたキングらの黒人公民権運動の指導者が公然と反戦の声を上げ始め、4月には全米で約30万人を動員する反戦集会が組織されるようになった。このあたりからマスコミもベトナム戦争への対応のまずさを批判するようになり、アメリカ世論はベトナムを巡って2分される結果となった。ジョンソン大統領はベトナムに於いてはベトコン、国内においては反戦派という二つの敵を持つこととなった。


無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺するソンミ村虐殺事件、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士や南ベトナム解放戦線のゲリラをあぶり出すために枯れ葉剤作戦、勝つために手段を選ばない戦い方をみて、国内世論だけでなく、国際的にも反戦活動が活発化する。これに対するTV、写真等のジャーナリストの報道が果たした役割は大きかった。

南ベトナム警察庁長官が、逮捕され、裁判も未だであるNFLの将校を路上で射殺する瞬間の映像がテレビで全世界に流された様子は、世界中に大きな衝撃を与えた。また、日本人カメラマン、岡村昭彦がライフ誌に発表した必死で逃れる川の中の母と子供のライフ誌表紙の写真は1枚の写真ではあったが、世界に大きな反響を呼んだ。フリージャーナリストによるこのようなリアルタイムな報道は朝鮮戦争ではなかったことである。

それまでは交戦国のプロパガンダ映画がせいぜいであった。戦争の実情は隠せなくなって来たのである。


1968年1月、ベトコンのテト攻勢、首都サイゴンの中枢部まで攻撃を受け、アメリカ大使館を一時占拠される事態になり、ベトナムにおけるアメリカの劣勢の実態が国民の目にもはっきりすることになる。そしてついに、ジョンソン大統領はこれまでのベトナム政策を転換し北爆を停止して、無条件で北ベトナムとの対話を呼びかけ、次期大統領選挙の辞退を表明した。


*ピッグス湾事件:1961年、在米亡命キューバ人部隊「反革命傭兵軍」を使って(アメリカ支援の下)、カストロ革命政権の打倒とアメリカ傀儡政権の再興を試みた事件。赴任間もないケネディ大統領の承認を経て1961年4月15日に侵攻が開始されたが、キューバ軍に3日間の戦いで簡単に撃退されてしまった。これにより、カストロキューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言し、ソビエト連邦への接近を強めた。結果、翌1962年にはキューバ危機が起きることになる。

この作戦の侵攻作戦の失敗はCIAや軍首脳のキューバ軍の過小評価、キューバ軍内の反乱予想と甘いものであった。これを鵜呑みにしたケネディは自らの過ちと認め、国民に謝罪するとともに、CIA長官を更迭し、以降、軍首脳の進言には注意をするようになった。

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