第13話 ベトナム戦争2・【ケネディの選択】

【アメリカの介入】


南ベトナムのベトミンはゴ・ディン・ジエム政府の激しい弾圧を受け、1960年12月反政府組織南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成された。ゴ・ディン・ジエム政権は、大統領一族による独裁化と、自らがキリスト教徒であって、仏教徒を弾圧するような圧制のため、ジエム政府に対する南ベトナム国民の反発は強まり、NLFは急激に勢力を拡大していった。アイゼンハワー政権下のアメリカは、ジエム政権を軍事、経済両面で支え続けた。


ホーチミン政府(以降北ベトナムという)は武力による統一やむなしとする方針を採択する。NLFの構成員には南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義とは無関係の一般国民も多数参加していた。しかし、北ベトナムの本格的介入により、戦闘の激化に伴って次第に北ベトナムの支配が強化され、ホーチミン・ルートを経由して中華人民共和国や、ソビエト連邦などから多くの武器や資金、技術援助を受けることになる。


【ケネディの選択】


1961年1月若き大統領ケネディが登場する。ケネディ政権は、就任直後に東南アジアにおけるベトナムに関する特別委員会を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢についての提言を求めた。特別委員会と統合参謀本部はともに、共産主義勢力の侵略とみなして、アメリカ正規軍による援助を提言した。ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件*やキューバ危機、ベルリン危機など世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激するとして行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのボウルズ国務次官とハリマン国務次官補の助言を却下し、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、1961年5月にアメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定した。


ケネディは真ん中の道を選択したと云える。ソ連との緊張緩和を求めたが、基本はトルーマンの対共産主義封じ込め政策を一歩も出ないものであった。あくまでベトナム人同士での戦争と位置づけ、南ベトナム軍の増強支援の範囲を超えないと考えた。しかし、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用を認め、攻撃と介入は拡大していった。


また、ゲリラではない農民と南ベトナム解放民族戦線のゲリラを識別するために、戦略村と称する農耕集落を建設し、南ベトナム解放民族戦線のゲリラではない農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。ケネディ政権の目論見に反して、アメリカ合衆国の戦争の都合のために、先祖代々の農地を離れて戦略村への入居を要求されても拒絶する農民が続出し、戦略村作戦は失敗した。このようなアメリカ政府、軍の現地情勢を無視した行動、作戦によって、民心は離れていった。


仏教徒による抗議行動は、1963年6月には、アメリカ大使館前での焼身自殺となり、その姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えた。これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語り、南ベトナム政府の腐敗ぶりを世界が知ることになる。この発言に対してケネディ大統領も激怒したと伝えられる。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。敬虔な仏教徒で知られた当時の国際連合事務総長ウ・タントもベトナム戦争に苦言を呈して米国は国連との関係も悪化した。


この様な混沌とした状況下において、アメリカもジェム政権を見限り、南ベトナム軍内の反ジェム勢力のクーデターを企面、支援した。アメリカ政府はクーデターにより南ベトナム情勢が安定することを期待していたが、その目論見は裏目に出て、クーデターは、反乱に参加した将校達の権力闘争を容認する結果となり、その後も南ベトナム政府内では13回ものクーデターが発生することになった。


南ベトナム駐留米軍事顧問団は、ケネディが暗殺される1963年には、16,263人に増加し、軍事顧問団という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げしたものとなった。アメリカの支援を受けた南ベトナムの圧倒的な武器装備や兵力数をもって、NFLの被害も甚大であったが、それを余りある数の兵力の補充、物資の補給があったとしたら、それは果て無い戦争であった。また、人民に支援されたゲリラ戦、南政府の腐敗、軍の士気のなさは、いくらアメリカが物量で支援しても焼け石に水であった。


こうして、国内政治に関しては公民法等に果敢な決断を下したケネディではあったが、ベトナムに対しては先の見えない形で、暗殺され、ジョンソン大統領に引き継ぐ形となる。

ケネディ政権下の1963年10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1,000人を引き上げる」と発表。1963年11月にはマクナマラ国防長官が「軍事顧問団を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表した。これをもってケネディが生きていたら、2期目はベトナムから撤収する方針を出しただろうとする意見もあるが、あくまでこれは、アメリカに対し敵対的な態度を取るようになったジェム政権に揺さぶりの見せかけであったと後のキッシンジャーは語っている。

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