第11話 注釈: 李承晩と 金日成

*注釈

国連軍

米韓軍側は国連軍という名前で戦ったのであるが、これには問題があった。憲章第43条は、安全保障理事会と特別協定を結んでいる国際連合加盟国がその要請によって兵力を提供することになっており、安全保障理事会が当該兵力を指揮するになっている。これまで、この兵力提供協定を結んでいる国がないため、国際連合憲章第7章に基づく、安保理が指揮する国連軍が組織されたことは一度もない。

朝鮮戦争では極東アメリカ軍司令官の統一指揮下にあり、安保理の指揮ではなかった。総会で求められた武力行為であるから、今でいう多国籍軍に相当することになる。また、不法な武力による侵犯から守る目的であるから、国境を越えた侵犯部分をもとに押し帰せば基本的には任務終了となる。

今一般に使われている国連軍の名前は「平和維持活動(PKO)」の一部を成す「国連平和維持軍(PKF)」である。


人物

李承晩(1875年 - 1965年)

少年時代科挙合格を目指していたが、1894年に科挙制度が廃止されたため、アメリカ人宣教師によるミッション・スクール培材学堂に入学した。培材学堂時代、独立協会にも参加したが、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、李承晩も逮捕され1904年まで獄中にいた。

同年の日露戦争の日本の脅威に危機を感じた大韓帝国・高宗らは、アメリカ合衆国に韓国の独立維持のための援助を求めることを構想した。そこで英語が話せた李承晩を釈放し、アメリカに派遣した。アメリカに渡った李承晩は1905年、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会したのがアメリカとの接点の始まりであった。その後、李承晩はアメリカに残り、プリンストン大学で哲学の博士号を取得し、韓国人初の博士号取得者となった。この時期にプリンストン大学の総長であったのが、後に大統領となるウッドロウ・ウィルソンである。アメリカ留学中の1910年、大韓帝国は大日本帝国に併合された。

大学院卒業後の1911年(明治44年)に日本領となった朝鮮半島へ戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教活動についた。しかし1年半の後、当時の朝鮮総督暗殺未遂事件の関与を疑われ、再び渡米した。渡米後ハワイに住んで、学校職員として勤務する傍ら、朝鮮独立運動に携わった。1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」(略称:臨政)の臨時政府大統領となった。これまで独立運動に於いてそれまでほぼ無名であった李承晩が大統領に選ばれたのは、アメリカ在留時代の人脈、特にアメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソン大統領との人脈が評価されてであった。李承晩は、国際連盟による朝鮮の委任統治を提案していた。これは左派の李東輝らの強い反発を受け、李承晩は完全に臨時政府内で浮き上がり、大統領職も解かれ再び渡米した。以降はアメリカでのロビー活動に専念することになった。1945年10月に李承晩はアメリカ軍政下の朝鮮半島に戻り、独立建国運動の中心人物となった。アメリカとの接点の深さや、断固とした反共主義の姿勢を評価されてアメリカから大統領適格者と見做されていた。1948年5月に行われた総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制、初代大統領に就任した。

1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。しかし、生涯大統領を望む李承晩は「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、136票が必要だった。わずか1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。しかし、李承晩派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の概念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した(四捨五入改憲)。

このような長期独裁政権であったが、長期独裁政治に反対する学生達を中心にした4月革命によって失脚した。1960年5月29日夫人とともに、アメリカ・ハワイに亡命した。日本に対しては李承晩ラインを設置して、日本漁民を拿捕し長期拘留したり、竹島や対馬の領土権を主張したりして強硬であった。


金日成(1912年 - 1994年)

母はキリスト教徒であり、外祖父もキリスト教長老会の牧師であった。抗日派もしくはそのシンパであったためか、父金亨稷は1919年3月1日の独立運動(三・一独立運動)の翌年、金日成を連れて南満洲に移住した。

金日成は満州の平城の小学校で学んだ後、1926年、満州の民族派朝鮮人独立運動団体が運営する軍事学校の華成義塾に入学した。金日成はここを短期間で退学した。父親が没した後、金日成は吉林の吉林毓文中学(中国人中学校)に通いながら、共産主義に関係していた小さな組織に参加した。彼はこの非合法組織の運動で逮捕されたため、中学校退学をよぎなくされた。

1933年、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加する。東北抗日聯軍においては、第一路軍第二軍第六師の師長となった。1937年6月金日成部隊が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたことによる。

しかし、日本側の帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、十数名ほどのわずかな部下とともにソビエト連邦領沿海州へと逃れた。ソ連に越境した金日成は、スパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁されるが、その後身元を保障されて釈放される。1940年、金日成部隊はソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となった。

1945年8月、ソ連軍の朝鮮半島北部占領に伴い、金日成は9月ウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした。同年10月に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した。ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として1946年2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した。翌年2月22日には北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の臨時政府として北朝鮮人民委員会に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた。このように、金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていった。

1948年アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、8月15日に大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した。さらに翌1949年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長に選出された。


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