第9話 朝鮮戦争5・日本との関係

(3)朝鮮戦争と日本との関係


朝鮮戦争の特需によって日本は経済復興の足掛かりを掴んだということばかりが強調されているが、いろんな影響があったのである。朝鮮戦争の兵站基地になったのは日本である。米軍基地からは爆撃機が毎日飛び立ち、仁川上陸作戦の海兵隊は沖縄から出て行った。占領軍の要請(事実上の命令)を受けて、機雷掃討作戦に海上保安隊を出動させ、物資の輸送等には民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に従事させた。開戦からの半年に限っても56名が命を落としている。


いわゆる逆コースである。日本の戦犯追及が緩やかになり、公職追放者が解放され、一方公務員、教員らのレッドパージが行われ、労働運動の締め付けが始まった。日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に日米安全保障条約と共に締結された。さらに日本に駐留米軍の朝鮮戦争派遣のため国内治安維持の名目で、警察予備隊7万人(のちの自衛隊)が創設され、日本の再軍備化が始まった。この戦争でアメリカは沖縄の戦略的価値を見直し、沖縄の基地強化がなされ、日本の占領解除の時も切り離され、復帰は1972年になった。本土復帰後も沖縄の基地重圧の問題は解決されず、今に至っているのである。


また、在日朝鮮人の問題にも大きな影響を与えた。終戦直後にはおよそ200万人の朝鮮人が日本に居住していたとされるが、そのうちの150万人前後は1946年3月までにGHQや日本政府の手配で帰還している。その帰還が戦争でストップしたのである。むしろ、戦火を逃れるために朝鮮半島から大量の密入国者が流入することとなった(済州島4.3事件)。その数は20万とも40万とも言われた。当時の日本の海上保安庁では、これら全てを取り締まることは出来なかった。また、韓国政府が摘発された密入国者の送還を拒んだ。彼らのほとんどは何らかの方法で特別在留資格を得た(政府も大目にみた)。


そして、彼ら在日の間にも韓国系(民団)、北朝鮮系(総連)という対立を生むことになった。済州島4.3事件からの避難民の中には多くの共産主義同調者がおり、彼らは日本共産党に入党した。コミンフォルムの批判で方針転換した共産党と一緒になって反米闘争を行い、数々の騒乱事件を起こした(吹田事件・枚方事件、大須事件など)。これを受けて1952年7月21日、破壊活動防止法が施行された。


釜山まで米韓軍が後退したときは、朝鮮半島を捨てて日本の防衛に集中するかの議論が米国でなされたほど米国は慌てたが、日本政府はそう慌てたものではなかった。民主党総裁芦田均の危機に対して国民運動を盛り上げ、挙国一致内閣を提案したが、ときの自由党吉田首相は「第3次世界大戦を危惧する声も一部ではあるが、戦争は容易に起こるものではなく、現在の日本の事態にはそぐわない」と退けた。社会党も「平和非武装とした日本は静観するが妥当」と取り合わなかった。米軍の占領下にあったこともあったのだろうが、朝鮮の統一をめぐっての内戦で最悪でも北朝鮮の日本侵攻はないと見ていたようである。


*特別在留資格:日本にいる朝鮮人・台湾人は講和条約の発効(1952年)とともに、日本国籍を喪失する取扱いとなった。その代わりに「かつて日本国籍を有していた外国人」を協定永住許可者として在留資格を認めた。

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