第7話 朝鮮戦争3・中国義勇軍の参戦

ソ連はアメリカを刺激することを恐れ、表立った軍事的支援は行わず、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めた。中国はソ連の空軍の協力を約して、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することを決定した。派兵された「中国人民志願軍」は彭徳懐を司令官とし、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大軍だった。参戦を巡っては林彪や首脳部にも反対意見があったが、毛沢東が押し切ったといわれる。


中朝国境付近に集結した中国義勇軍(実質人民解放軍)は10月19日から隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への侵入を開始した。中国軍は11月に入り国連軍に対して攻勢をかけ、アメリカ軍やイギリス軍を撃破し南下を続けた。国連軍は中国人民解放軍の参戦を予想していなかった上、補給線が延び切って、武器弾薬・防寒具が不足しており、これに即応することができなかった。

11月24日には国連軍も鴨緑江付近より、中国義勇軍に対する攻撃を開始するが、中国人民軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。

ミグ-15の導入(ソ連空軍が中国空軍に偽装)による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件*などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が命を落とした。


中国軍は日中戦争や国共内戦における戦いで積んだ経験と、人海戦術、ソ連から支給された最新兵器で、参戦当初は優勢だったが、度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。

それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3月14日にはソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となった。


4 【停戦】


アメリカはこれ以上の北進は望まず、トルーマンは1951年3月24日に「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていた。これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に、38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破した。さらにマッカーサーは中国満州工業地帯の空爆や、蒋介石の台湾政府軍の朝鮮半島への投入の主張をした。これは戦闘状態の解決を模索していた国連や、アメリカ政府中枢の意向を無視しており、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言であった。

マッカーサーの暴走を恐れたトルーマンは、太平洋戦争の英雄をすべての軍の地位から解任した。解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともにアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後に、アメリカ連邦議会上下両院で「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」の有名な退任演説を残して退役した。


押し戻したとはいえ、アメリカ軍による空爆の被害は甚大で金日成は弱気になっていた。スターリンもアメリカ軍を追い出して統一することは不可能と考えるようになった。マリク国連大使を米国国連大使と接触させたのである。これは中国と相談のない単独行動であった。

このとき、韓国の李承晩政権は先に述べた国民防衛軍事件や、後で述べる居昌良民虐殺事件の二つの事件が国会で取り上げられ、最大の危機状況にあった。ここに一気に停戦の機運が盛り上がってきたのである。


毛沢東は戦争の継続を考えていたが、毛沢東の援助要請にはすべて応じてきたスターリンであったが、ここにきて援助額の減額を示唆した。スターリンの変化を察した毛沢東は義勇軍司令官彭徳懐を呼び寄せて意見を聞いた。「技術的によく装備した敵と戦うには、勇気だけでは不十分であり、勇敢で、理性的な指導部が存在することが重要である」と、38度線を越えての再侵攻には慎重であった。


停戦会談は始められたが、戦争をしながらの会談であった。思わぬところから難題が発生した。捕虜の交換問題であった。国際法によると停戦が成立すると即時全員交換が原則であるが、南の人民で北朝鮮軍に兵隊に駆り出された捕虜兵もたくさんおり、帰ることを希望しないものや、体制の違いによって、帰った場合の粛清も捕虜たちは危惧した。捕虜になった中国人兵士を洗脳して台湾政府に帰還させる計画を韓国側が持っていたりして中国を硬化させた。その間に行われたアメリカ空軍の水豊ダム等のダム破壊による電力不足の事態で金日成は即時停戦を望み、スターリンはこれに同情した。


アメリカではトルーマンに代わりアイゼンハワーが大統領になり、スターリンも死亡し、両国の指導者が代わったことにより、停戦合意が加速され、1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をした。調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった。現在も、停戦中で原則交戦の状態にある。

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