第2話 ギリシャ問題・トルコ問題・ポツダム会談

ギリシャ問題

ギリシャでは第二次世界大戦中、共産党系の民族解放戦線(EAM)が枢軸国に対するレジスタンス運動を展開していたが、ドイツ軍撤退後、カイロにいた亡命政府が首都アテネ入りを果たすと、同政府の中心である右派・王党派勢力と王制打倒を掲げるEAMとの間で衝突が起こった(ギリシャ内戦)。ギリシャ人にとっては海外にあった亡命政府は遠い存在であり、EAM有利で推移していた。イギリスは王党派を援助し、内戦に介入した。ソ連の助力なしでティトーが共産ユーゴスラヴィアを打ち立て、さらにルーマニア・ブルガリアに入ったソ連軍がそれぞれの国の共産主義化を押し進めていた。イギリスにすればバルカン半島が赤く染まると思えたのである。この介入に対して内外から批判が挙がった。加えて、1946年から翌年にかけての冬は実に66年ぶりの厳冬となったため、国内では深刻な燃料危機が発生した。イギリスは大戦で経済が疲弊した上、巨額の対米借款を抱えており、援助政策の再考を迫られた。


トルコ問題

一方トルコでは、ボスポラス・ダーダネルス両海峡の管理を巡る問題が発生した。両海峡は1936年11月以来モントルー条約に則って管理されてきたが、1946年中に改訂することがポツダム会談で合意されていた。これを受けて1946年8月7日、ソ連はトルコに覚書を送付し、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛などを提案した。トルコはこれに反発し、米英もトルコに同調した。


ポツダム会談

ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日まで、ポツダムに米英ソの3カ国の首脳が集まって行われた。アメリカはルーズベルトではなくトルーマンが大統領として出席した。この会談では英国とソ連が激しく対立した。ちなみに会議の最中、イギリスの総選挙では保守党が大敗し、チャーチルにかわって労働党のアトリーが首相となり途中で交代している。会談は取り決めなく流れるかと思われたが、バーンズ国務長官の尽力で「ポーランド国境」「ドイツの賠償」「イタリア・ブルガリア・フィンランド・ルーマニア・ハンガリー各政府の状態」について触れられた「バーンズ提案」を三国が受け入れたことにより会議は決裂を免れた。


このポツダムで、7月21日、トルーマンは原爆の実験成功を聞いた。その威力のすさまじさを知ると態度を一変させ、東欧問題などでソ連に対し断固とした態度を示すようになった。トルーマンは早々に原爆投下を決定した。一に日本が降伏する前に、二にソ連が参戦する前に使っておきたかったのである。8月6日、9日と広島・長崎に原爆は投下され、8月15日、日本はポツダム宣言を受託した。アメリカに逆らえばどうなるのか、世界が思い知った瞬間であった。

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