戦争と革命の時代・冷戦下の戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争 )

北風 嵐

第1話 『冷戦の始まり』ヤルタ会談・ポーランド問題

第二次世界大戦は1945年5月8日ドイツ、8月15日本の無条件降伏をもって終わった。世界は平和のこの時を歓喜したが、しかしすでに水面下では冷たい戦争が始まっていた。


(1)ヤルタ会談

1945年2月、ソビエト連邦のヤルタに3大国の首脳が集結した。世界の覇者たろうとするアメリカ大統領F.ルーズベルト。二度の大戦で衰えた大英帝国の支配を再興しようと考えるイギリス首相チャーチル。そして、共産主義体制の維持、拡大を考えるソビエト連邦首相スターリン。彼らはそれぞれの野望を胸にヤルタで会し、大戦後の世界の在り方を話し合った。

当然、二度とかかる惨禍が起きないことを前提としたが、自国の大戦後の世界秩序に及ぼす影響力を最大限持たそうとするものでもあった。


敗戦国である枢軸国(植民地、占領下にあった地域を含む)の占領管理の在り方には、既に敗戦し占領されていたイタリアの方式を原則とした。直接軍事的に占領した連合国が、排他的な実権を握り、他の連合国は形式的な参加を認められるにすぎないという方式である。これはイタリア占領にソ連を参加させない方式であった。結果として東ヨーロッパの占領管理はソ連が担うことになった。ドイツに関してはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4つに分割する共同管理方式となった。


• ポーランドについては、ソ連のポーランド東部の領有を認める代わりに、ポーランドは旧ドイツ領から西方の領土を取得する。その上でソ連占領下のポーランドで自由選挙を実施し政治体制を決定する。

• バルカン半島は英ソで分割する。ギリシャはイギリスが、ブルガリア・ルーマニアはソ連が優先権を持つ。

• 国際組織として国際連合を創設する、常任理事国は米英ソ仏中とし安保理での拒否権を設ける。蒋介石を、中国代表として正式に認める。


アメリカとソ連の間で秘密協定が結ばれる。内容はドイツ敗戦後、ソ連が日本に宣戦する。その見返りに、南サハリン・千島列島をソ連が併合し、満洲に持っていた日本の権益はそのままソ連が受け取る。満洲権益はソ連が蒋介石中国を認める見返りであった。日本との本土決戦が見込まれる中で、ルーズベルトのソ連側へのかなりな譲歩であった。


ポーランド問題

冷戦の発端となったポーランド問題をもう少し詳しく見てみよう。日程の半分以上はこれについて話し合われた。

第2次大戦はナチスのポーランド侵攻を持って始まった。ポーランドは14世紀から17世紀にかけ王国として繁栄したが、18世紀に入って3度にわたり国土が、ロシア、プロシャ、オーストリア帝国によって分割され消滅した。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、旧ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、共和制の国家として1918年に独立した。1920年には王国時代の国境線回復を狙ってソ連に対する干渉戦争をおこなう。結果、東方に国土を拡大した(リガ条約)。ポーランド回廊の設定によってドイツは領土を東西に分割され、これはドイツ人にとって不満であった。ヒットラーは第1次大戦での失地の回復を第一義としていた。この回廊問題を口実に侵攻したのである。独ソ不可侵条約を結び裏で秘密協定によって独ソでポーランドの分割が約されていたのである。ポーランドと同盟関係にあった英仏はドイツとの開戦に踏み切らざるを得なくなったのである。


レーニンは『平和の布告』で無併合、民族の自決を謳っていた筈である。ソビエトの主導するコミンテルンはファシズム打倒を掲げていた。ヒットラーのボルシェビキ打倒は金看板であった。この相互の条約には世界は驚いた。私はこの時点でレーニンの社会主義国家は死んで、スターリン独裁の大ロシア帝国が出来上がっていたとみる。1930年代のスターリンの大粛清はこのために行われたとも思える。ロシア革命による社会主義の理想は単なる看板に成り下がったのであった。

1939年、ドイツとソ連はともにポーランドに侵攻し、西半分及び東半分をそれぞれ分割占領したが、1941年、ドイツは独ソ不可侵条約を破りポーランド東部に侵攻、全域を占領するに至った。その後ソ連は再び東半分をドイツから奪還し、1944年、ルブリンにおいてポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権)を樹立した。


ドイツの侵攻から逃れたポーランド政府は亡命政府をイギリスに置いた。イギリスはこれを正式政府と認めていた。ポーランドは政体の在り方を含め国境線の策定には慎重を要したのである。


ソ連に抑留されていたポーランド軍捕虜が本国に送還される途中で起きたカティンの森での虐殺事件などでソ連と敵対したポーランド亡命政府は帰国することができず、ルブリンに置かれたソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。ソビエト連邦はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年のポーランド公国国境の回復に固執した結果である。


ヤルタ会談では、亡命政府、ルブリン政府のどちらが正式な政権であるかを巡ってイギリスとソ連が激しく対立した。ソ連にとってポーランドは自国の安全保障上の重要地域であり、一方イギリスにとっては、社会主義の拡大への懸念から共産党政権を認めることはできなかった。会談では結局アメリカの仲介により、ポーランドにおいて総選挙を実施し国民自身で政権を選ぶこと、国境線ではソ連の主張通りポーランドの国自体を西へ移動させることで決着した。

ところが、スターリンは帰国した亡命政権の指導者を逮捕し、ルブリン共産党政権によるポーランドの社会主義国化が決定的となった。後のアメリカ大統領、トルーマンはこれを知って激怒し、米ソの対立のスタートとなった。


*注釈:亡命政府とソ連の問題

1944年8月1日ドイツ占領下のポーランド市民が、亡命政府が国内に残していた軍事組織「国内軍」とともに立ちあがった(ワルシャワ蜂起)。この蜂起をソ連が援助できたにもかかわらず見殺しにした。そこにスターリンの、ポーランドの「国内軍」一掃の狙いがあった。カチンの森事件もその線上で捉えれば理解できるであろう。スターリンは「イギリスやフランスにとっては、ポーランドはヨーロッパの庭かも知れないが、ソ連にとっては死活問題に関わる領域である」と言明している。

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