第5話 東ドイツ・ベルリンの壁崩壊
(5)東ドイツ・ベルリンの壁崩壊
東ドイツは西ドイツと何かと比べられる運命にあった。東ドイツの首都ベルリンは壁一つで西ドイツ・ベルリン地区と接していた。ソ連からの大きな経済援助や西ドイツからの借款を受けたことにも助けられ、社会主義国の中では最も経済発展を遂げ「社会主義の優等生」と呼ばれた(嵩上げされた数字はあったが)。これがエーリッヒ・ホーネッカー書記長の強い自信となっていた。しかし1970年代後半の第二次石油危機以降、西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、計画経済、党官僚の支配の下で硬直化した東側陣営では経済の構造改革が出来なかった。1980年代には東ドイツ経済も世界屈指の経済大国となった西ドイツには大きく水を開けられ、抑圧的な政治体制もあって東ドイツ国民は不満を募らせるようになっていった。
ゴルバチョフのペレストロイカが始まり、隣国ポーランドでの社会変革の動きが強まってからも、ホーネッカーは民主化路線に否定的で、秘密警察である国家保安省(シュタージ)を動員して国民の束縛と統制を強めていた。
ハンガリーでの「汎ヨーロッパ・ピクニック」は既に述べたところである。東ドイツ国民の大量流失が始まったのである。この事態に対してホーネッカーが療養中で、他の党首脳は何の対策も見つけられなかった。そうしている間にも、東ドイツ国内では医師、電車やバスの運転手、高等教育を受けた若い労働者などが次々に出国し、東ドイツのあちこちで交通機関の運休や医療の崩壊、工場の閉鎖などの社会的混乱が起きていた。
療養生活から復帰したホーネッカーはチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で出国することは不可能になった。逃げることが出来なくなった東ドイツ国民は不満を体制批判に転化させるようになり、ライプツィヒを拠点にデモ(月曜デモ)が激化していくことになった。
10月7日、東ドイツ建国40周年式典が行われることになり、ゴルバチョフ書記長も来賓として出席した。前日の6日夜に行われたパレードで、動員されたドイツ社会主義統一党の下部組織・自由ドイツ青年団(FDJ)の団員らが突如として、ホーネッカーら東側指導者の閲覧席に向かって「ゴルビー! 私たちを助けて」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった。
空港から帰るとき、見送りの党幹部にゴルバチョフは一言「動く時だ」と言った。ゴルバチョフにも見捨てられ、忠実なはずの党の青年組織からも公の場で反目されたホーネッカーは、党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。
激化したデモに対してホーネッカーは軍の出動を要請したが、国軍の参謀総長は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した。翌日開かれた10月17日の政治局会議でホーネッカーは解任された。後任になったクレンツは一党独裁制の枠の中で緩やかな改革を行おうとしたが、国民の反発は強く、11月4日には首都の東ベルリンでも百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模なデモが起こり、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。この後ようやくクレンツは、東ドイツ国内の世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明した。
党の中央委員会は混乱していた。経済学者シューラー国家計画委員長によって東ドイツの財政が莫大な対外債務を抱えて破綻寸前になっていることが報告された。これまで東ドイツが社会主義国では一番の工業力・経済力を持っていると信じていた党員達は当惑と失望、ホーネッカーらに対する怒りの感情を抱いた。これらの問題や、各地で起きているデモへの対応などを巡って中央委員会の出席者たちはお互いを非難し、罵り合うような状態であった。
1989年11月9日の午後3時過ぎに、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し、出国問題について「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を提示した。内容は以下のようなものであった。
一、旅行および国外移住に関する次の暫定的経過措置が直ちに発効する。
1.外国旅行は(旅行目的、親戚関係など)諸条件を提示することなく、申請できる。
2.警察の旅券・登録部門は、国外移住のための出国ビザを遅滞なく発給するよう指示される。
3.国外移住に関して、両独国境ないし東西ベルリンのすべての検問所を使用できる。
この暫定的経過措置については、添付の報道機関用資料が11月10日に発表される。
社会主義統一党のスポークスマン的な役割を担っていたシャボウスキーは、18時からの記者会見のために会議の途中で退席しクレンツからA4版2枚の書類を渡された政令案を読み上げた。
「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。この記者会見場で記者が「(この政令は)いつから発効されるのか」と質問したところ、シャボウスキーに渡された文書は10日に報道発表するための文書だったため、発効期日は書かれていなかったため、シャボウスキーは「私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということですと答えてしまった。
この記者会見の模様は、夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は半信半疑で壁周辺に集まりだした。国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近では「開けろ」「開けられない」でいざこざが起き始めた。発砲は禁じられていたので、危機的な混乱を避けるためハラルト・イエーガー中佐は詰めかける群衆を前にゲートを開けたのである。1961年8月13日造られて以来、ベルリンの壁が開いた瞬間であった。
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