第3話 ハンガリー・開いた国境
(3)ハンガリー・開いた国境
他の中東欧の社会主義国に比べると早いうちから市場経済化・政治の自由化を進めており、ソ連のゴルバチョフ政権によるペレストロイカの流れもあって、改革をさらに進めていたハンガリーであったが、1980年代後半になると、カーダール・ヤーノシュによるハンガリー社会主義労働者党独裁の限界が明らかとなった。
過度な投資が対外債務の増加を生んで経済が失速する一方、高齢になったカーダールは保守化し、これ以上の経済の自由化には消極的になっていた。1987年、カーダールは対外債務の返済のために出した増税案が国会で否決され、社会主義体制になってから始めて政府の法案が議会によって覆されるという事態が生じたのである。これによって保守派とカーダールは信用を失い、1988年5月、カーダールは引退した。
カーダールの後には穏健改革派がついたが、改革急進派が優勢になり、国有企業の株式会社化、1989年になると1月には集会・結社の自由化、2月には党の指導性の放棄、党と政府の分離等が決定、6月には複数政党制の容認などが進められ、10月には、国会で市場経済・複数政党制による民主政などを定めた憲法の改正案が採択されて、国名も社会主義の文字を消した「ハンガリー共和国」に改称された。
1989年5月2日、ネーメト内閣は「財政上の理由により」ハンガリー・オーストリア間の鉄条網の維持を放棄すると発表し、その撤去に着手した。これはハンガリーが西側に扉を開いたことを意味した。これによって西ドイツへの亡命を求める東ドイツ国民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、当時のハンガリー政府もハンガリー国民もそこまでの意味を持つとは考えていなかったが、これによって事態は急転し、後のベルリンの壁崩壊や冷戦終結に繋がっていくことになった。
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