第2話 ポーランド・「連帯」

(2)ポーランド・「連帯」

1980年の8月、それは一人の造船所の女性労働者アンナ・ワレンティビッチの解雇から始まった。彼女はとても評判の良い人物だった。彼女に対する処遇が不正であることは明々白々であったが、ストを呼びかけた活動家たちは労働者の反応を計りかねていた。ダダニスクにあるこの造船所(レーニン造船所)は1970年デモ隊が市中央部に向けて通用門を出たところで44人が殺害された歴史を持つ。


造船所所長がクレーンによじ登って集まった労働者に向かって、職場に戻れば要求について話し合うと約束した。聴き入って労働者が軟化するかに見えたとき、一人の男がクレーンに登って所長の横に立った。4年前に組合運動幹部として解雇されていたレフ・ワレサであった。彼は「占拠スト」を呼びかけた。直ちに彼を議長とするストライキ実行委員会が結成された。以降「連帯」を率いてポーランドの民主化運動の先頭に立つワレサのデビユーであった。


この占拠ストの戦術は連帯が用いた最も効果的な武器の一つであった。何よりまずスト参加者が街頭で警察に襲われないよう保護する狙いがあった。数百人の労働者が占拠する工場を制圧するには軍事的な作戦が必要になる。それは政府にとって決断のいるものであって、決断した場合両刃の剣になるリスクを持つものであった。連帯の運動は労働者の待遇改善から民主化を求める運動へと急拡大していった。

これに対して、政府ヤルゼルスキ政権(ポーランド統一労働者党)は1981年戒厳令をひき、連帯を非合法化した。戒厳令の効果は薄く、1983年には戒厳令を解除した。非合法ながら連帯は活動を続け、依然として国内改革と民主化を要求し、政権を揺るがし続けた。 ヤルゼルスキは事態の打開を計り、連帯を合法化し対話に応じる穏健路線に転じた。連帯内部でも急進路線が放棄されて穏健路線が確定した。


両者がテーブルにつき(円卓会議)、対立から協力へ、急進から穏健へ、と方針転換したことで、ポーランドの民主化は体制側と反体制側の対話が進み、理論面・制度面・社会面で地盤が固まっていった。円卓会議の現場も全国にテレビとラジオで中継され、全国から意見が寄せられた。ポーランドでは国民すべてが参加した形で民主化に向けた協議が行われた。1989年円卓会議は「大団円」で決着する運びとなった。もはやポーランドにとっては、ソ連の情勢だけが問題であった。ペレストロイカを掲げるソ連のゴルバチョフはブレジネフ・ドクトリンを取らないとして武力介入はないことを保証した。


東欧では先頭を切った自由選挙が実施され、連帯が圧勝。新政権として民主化を求める非労働党勢力が主導権を握りつつも、労働党勢力を政権に取り入れる連立政権が発足し、ヤルゼルスキが暫定的な大統領に就任。首相以下閣僚に連帯などの非労働党勢力出身の人物を任命して、新生ポーランドがスタートした。1990年、国民投票の結果、大統領を直接選挙によってではなく総選挙後の国会で決めることになる。連帯のワレサが当大統領に選ばれ、血を流すことなくポーランドの民主化革命は達成された。


労働運動の激化⇒弾圧⇒さらに民主化運動と拡大していった背景には、1970年代以降、ギエレク政権は西欧諸外国からの借入で経済成長を目指し、1970年代前半には高度成長を実現したが、政権の無計画な経済政策とオイルショックにより成長は減速、多額の借入に苦しみ、経済状況が悪化し食料・物資不足を招くような状態があった。

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