戦争と革命の時代・東欧革命

北風 嵐

第1話 東欧革命前史(ハンガリー動乱・プラハの春)

(1)前史

1953年のベルリン暴動、1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春など東欧革命以前にも民主化を求める運動は存在した。ハンガリーのナジ・イムレやチェコスロバキアのアレクサンドル・ドプチェクのように民衆の要求に応えて改革を試みた政治家もいた。しかし、その度に出動したソ連軍によって民衆の運動は鎮圧され、改革派の政治家も処刑されたり、党から追放されるなどした。ハンガリーではカーダール・ヤーノシュが比較的穏健な統治を行ったものの一党独裁制が改められることはなく、チェコスロバキアではグスタフ・フサークが「正常化体制」と称して改革派を党から追放し、強権的な体制が強化された。


①ハンガリー動乱

1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起を指す。蜂起は直ちにソ連軍により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。世界の社会主義者に衝撃を与えた。ハンガリーでは、この事件について公に議論することは、その後30年間禁止された。


②プラハの春

1968年1月チェコスロヴァキア共産党第一書記に就任したドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」と呼ばれる新綱領を発表した。この文書はスターリン型社会主義ではない「新しい社会主義モデル」を提起していた。具体的には

1. 党への権限の一元的集中の是正

2. 粛清犠牲者の名誉回復

3. 企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革

4. 言論や芸術活動の自由化

5. 外交政策でもソ連との同盟関係を強調しつつも、科学技術の導入を通した西側との経済関係の強化等を内容としていた。


これに対してワルシャワ条約機構の東欧諸国は、その「反社会主義」的影響がブロック全体の共産党体制の基盤を侵食する可能性を危惧し、ソ連に介入を求めた。

ソ連の圧力のもと、ソ連とチェコスロバキアの2国間で会談が行われ、一定の合意が得られ軍事介入は見送られた。内容は(1)共産党の指導的役割の擁護(2)検閲の復活によるマスメディアのコントロール(3)非共産党系政治組織の解散や改革派の追放を約束したものであったが、双方の間には認識の違いがあった。


ブレジネフは軍事介入を決断し、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。チェコ・スロヴァキア全土を占領下に置いた。1969年4月、ドゥプチェクに代わり、フサークが党第一書記に就任し、「正常化体制」を進める。ドゥプチェクはじめ改革派幹部は党を除名され、「プラハの春」は終焉した。

チェコ・スロヴァキア介入を正当化する論理、「社会主義の危機が生じた場合、社会主義ブロック全体の利益が優先する」はブレジネフ・ドクトリンと呼ばれ、以降東欧諸国を縛ることとなった。


正常化体制下では、改革を支持した『2000語宣言』に署名した知識人、著名人は撤回を求められ、それを拒否したものにはまともな仕事を与えられなかった。この著名な人物の中に東京オリンピックで活躍した女子体操のチャスラフスカがいた。彼女は体操協会からも追放され体操のコーチの仕事にもつけず、清掃の仕事について生活を支えざるを得なかった。

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