第7話 超短いゴルバチョフ回想録

後は長くなるので、フェイスブックに投稿した『超短いゴルバチョフ回想録』をもってこれに充てる。


まず、『厚い、厚い』と題した出だしである。


 東欧革命からソ連崩壊に関する新書版を読んでいた。これは『ゴルバチョフ回想録』を読まねばと、図書館で予約を入れた。取り寄せの通知が来て取りに行った。見て「びっくりポンや」。

 


まさか一冊がこんなに厚い(細かい字で上下2段800ページ、それも上下)とは、取り寄せといて要りませんとは言われない。興味のある章だけ読めばいいやー!と読んだ。結局ほとんどを読んだ。最後の訳者あとがきにこう書いてあった。≪回想録としては貴重な資料であり秀逸の作品である。ただ欠点はともかく厚いことである。読者には自分の興味のあるところから読み始めるのもよし、興味のある所だけ読むもよし≫と・・


幸い私はそのような読み方をしたのであるが、冒頭に書いとけー!と思った。読んでの感想を超短編で書いてみるかぁー!となった。


『超短いゴルバチョフ回想録・連載1』・8月のクーデター


 読み出したのは下巻、「8月クーデター」からです。休暇中に保守派によって軟禁状態におかれ、大統領の権威を失墜した事件でしたね。

 興味を持ったのは外交の片腕であった外相シェワルナゼが「ゴルバチョフのヤラセの疑いがある」と言っていたからです。「まさか?」と思いましたが、シェワルナゼが言っているのです。家族ともども軟禁状態(外との交信は一切断たれた)になった記述は臨場感があってとっても嘘を書いているとは思えなかった。全部読んでみてだが、とってもそんな芝居が出来る器用な人物とは思えない。察知出来なかったが正解だろう。


 では、何故シェワルナゼはそんなことを言ったのか?再三、クーデターのリスクが高いと注意を与えたのに意に介さなかった。シェワルナゼはこの事件の直前に「独裁が迫っている」と、クーデターを予言するような発言をして突然の辞任を表明したのです。この辞任はゴルバチョフに事前に知らされていなかったのです。この辺がなんとも不思議なとこなんです。

 クーデター首謀者たちは、いずれもゴルバチョフが抜擢した側近だったため、ゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜し、ソ連邦の崩壊が早まったのです。本人は裏切られたと言っていますが、それでは「大統領脇が甘すぎます」云われても仕方ないですね。


『超短いゴルバチョフ回想録・連載2』・ペレストロイカ


 世界流行語大賞があれば、何年も続けてこの人だったでしょう。ゴルバチョフのペレストロイカか、ペレストロイカのゴルバチョフかと云われたものです。ペレストロイカ(建て直し・改革の意)のお陰で東欧は民主化され、ドイツは統一され、冷戦は終結したのですから、世界における貢献度大でノーベル平和賞の名に恥じないものでした。


 ペレストロイカと並んでよく使われたのが「グラチノス(情報公開)」という言葉でした。彼にとっては民主化を進めるうえで必須のものでした(スターリンの時代を思い出してください)。大統領になった早々、あのチェルノブイリの原発事故でよりその必要を痛感したのでした。国民に情報を公開することによって、共産党が国民を監視するのではなく、国民が共産党を監視する。それによって党を活性化し、改革を進められると考えたのです。ペレストロイカとグラチノスは車の両輪だったのです。


でも統制を解かれた言論の自由のもと、最後の頃は政府紙であった「プラウダ」にまで批判記事を書かれ、いらついていたのは何とも皮肉に感じられました。


『超短いゴルバチョフ回想録・連載3』新思考外交


「新思考」「欧州共通の家」も彼の言葉でした。新思考外交とは、「世界は相互依存の関係にある。階級闘争や東西対立より全人類的価値を優先し,核戦争や環境破壊から地球を救うために信頼関係の確立が重要とする」という立派なものでした。ソ連はアメリカとの限りない軍拡競争に限界を感じていたのです。ゴルバチョフが書記長について知ったのは、国防・軍事関連予算は発表では連邦予算の16%でありましたが、実に40%を占めていました。軍産複合体のGDPに占める比率は20%にも達していたのです。

 最高の知能を集め、糸目をつけず資源を最優先で回し、宇宙開発、核開発をしているのです。素晴らしい戦闘機はつくれても満足な車は作れない。その車を買うお金があっても何年待ちというのではまともな経済とは言えません。


 この予算を削減して経済開発に向けられたらと私でも考えますね。「ではそうしましょう」とは簡単にいきません。西側と軍縮の話をつけてからでないと、軍に減らせとは言えません。ヨーロッパに配備されたNATOのミサイルはモスクワに向けられているのです。「新思考」「欧州共通の家」によるデタントはソ連にとっては必要なものだったのです。程度の差はあれアメリカも軍拡競争をやめたがっていました。ゴルバチョフとレーガンとの会談でレーガンの印象的な言葉があります。「軍拡競争してもアメリカは負けませんよ」と、アメリカはまだ余裕を咬ませられたのです。


『超短いゴルバチョフ回想録・連載4』武力では解決しない!


 私が一番評価するのはこの考えです。今、東欧革命について書き終えたところですが、反政府民主化運動の側はソ連軍の介入を最後まで恐れていました。何しろ過去にハンガリー動乱、プラハの春の前例があり、そして国内には駐留ソ連軍がいるのですから・・しかしゴルバチョフは「プラハの春」の二の前をしないと固く決めて東欧政府側に言い渡していました。それをすることはブレジネフドクトリンの世界に戻ることで、ペレストロイカを否定することになるからです。紛争に武力は有効な手段ではないは徹底した考えのようでした。後ろ盾を失った東欧政府権力は弱かった、それが短期間にバタバタと連鎖反応起こした一番でしょう。


バルト三国の独立のときはどうなの?になりますね。東欧は衛星国とはいえ、外国になります。バルトの問題は国内問題です。問題の質が違います。私はそう考えていました。本では本人は知らされていなかったということです。保守派やKGBが勝手に動いて既成事実を先に作った(日本でも関東軍とかありました)のではと推測しています。それでも最高責任者としての統率力が問われますよね。


第5部 「疾風怒濤の1991年」は絶対に面白いです。権力の食うか食われるかの争い、スリルとサスペンスに溢れています。権力闘争はエリツインの方がしぶとく上手のようです。「8月のクーデター」はこの5部の中にあります


『超短いゴルバチョフ回想録・連載5』足場を崩されたゴルバチョフ


ソビエト連邦共産党書記長の権限は絶大であります。かつては反抗・批判する分子は闇に葬って粛清できるほどでした。


 ソビエト社会主義共和国連邦は多民族国家で15の構成共和国による連邦体であります。連邦体でも極めて中央集権が強い形でした。中心になる共和国はロシア共和国であります。各共和国にはそれぞれの共産党がありましたが、ただロシアにはそれがありませんでした。連邦共産党の直轄みたいなもので、それで矛盾なくやってこれていました。それはおかしいではないかということでロシア共産党が作られました。保守派はここを牙城にしょうという魂胆でした。


 ソ連の国会にあたるのが連邦最高会議ですが名目的な存在でした。ゴルバチョフは人民代議員大会を設置し、共産党以外の立候補も認めた初めて直接選挙で代議員を選びました。人民代議員の数は2000名になるので最高会議をこの上に設けました。各共和国でもこのスタイルになりました。この選挙では野党勢力が伸長し、失脚していたエリツイン(民主ロシア)がロシア代議員として政治復活し、「ロシア最高会議議長」になったのです。


 バルト三国の独立要求で各共和国は主家国家を云いだしたのです。ゴルバチョフは新しい連邦の在り方を考えざるを得なくなりました。こうして、ゴルバチョフは三方から自らの権力の足場が崩されて行きました。ペレストロイカは自らの権力基盤を崩していく過程でもあったのです。


『超短いゴルバチョフ回想録・連載6』・中国『改革開放』との比較


 保守派の抵抗も然ることながら、ゴルバチョフが最後まで苦労したのが経済改革でありました。市場経済にどう上手く移行できるかであったのです。西側との歴然とした遅れに危機感を感じた同じ社会主義国家の中国も同じ課題を抱えていました。文革の大混乱がやっと終焉し、三度復権してきた鄧小平が掲げたのが『改革開放』路線でありました。経済特区を作って西側の資本と技術を導入していき徐々に周辺に広げていく手法をとりました。

「先に豊かになれる者や地域から豊かになればいい」と、格差を認める大胆なものでした。毛沢東が存在していたらとっても認めないものだったでしょう。鄧小平の『改革開放』路線をゴルバチョフはどう考えていたのかという疑問が私に起きてきたのです。


 ゴルバチョフはあの天安門事件の最中に中国を訪れているのです。中国側の配慮で天安門は避け、迂回し、南海楼で鄧小平と会談しています。中国で今何が起きているかは、当然ゴルバチョフは知っていました。迂回してもその熱気は車の中で感じていたのです。


「回想録」の中では、訪問時には内政干渉になるので明確に語ってはいないのですが、「民主化要求」には並々ならぬ関心があるのが知れます。鄧小平と会ってはいるのですが、「経済特区」については何も触れていません。中国の「改革開放」路線には意外と関心が冷淡であったようです。ゴルバチョフはあくまで政治改革、党改革が先行したようです。

 共産党には手を付けず、政治的な安定のもとで経済改革を優先した鄧小平。党改革、政治改革を優先し、そのもとで経済改革を考えたゴルバチョフ、ゴルバチョフは革命後に生まれた人物、鄧小平はまさに革命を担い、革命戦争を戦った人物。この二人は比較して面白いと思いました。私には鄧小平の方が一筋縄ではいかないしぶとさがあり、現実感に優れているように思われました。


 ゴルバチョフが政治改革を優先したのは『ヨーロッパ共通の家』構想があったと思われます。東西の壁を取り払って一つのヨーロッパの中で市場経済に移っていくことを考えたのではないでしょうか。一方の中国はすでに80年に『経済特区』を設けて資本主義的な市場経済システムの実験的導入で先行していました。そして、それには香港をはじめとする海外の華僑たちの存在がありました。比較してソ連には不幸にして市場経済へ移行するための素地がなかったといえます。ソ連のヨーロッパに近い歴史的、地理的条件からそれをヨーロッパに求めたのでしょう。


ゴルバチョフの片腕として外交を担ったシェワルナゼはペレストロイカの失敗を「ともかく改革に時間がかかり過ぎた」と述べていたのが印象的でありました。


 1989年、ブッシュとゴルバチョフによる首脳会談で、冷戦の終結が宣言され、その2年後の1991年ソ連邦は崩壊しました。1917年のロシア革命から74年、社会主義という壮大な実験は終ったのです。こうしてみると20世紀はソ連(ロシア)の時代だった言えます。その対応に追われたのがアメリカだったと、私には思えてくるのです。


注釈:『ヨーロッパ共通の家』構想

1987年,ソ連書記長ゴルバチョフがヨーロッパの新政治秩序,平和安全システムとして打出した西欧向け外交スローガン。 75年7月のヨーロッパ安全保障協力会議におけるヘルシンキ宣言が,この構想の土台となっており,すべてのヨーロッパの国が政治的・経済的・軍事的な歴史的分断状態を克服し,一つの共同体として「共通の家」をつくるべきだとする考え方です。

 この考えのもと、東西冷戦の終結に際して、レーガンとの間でNATOを東欧にまで拡大しない約束で、ワルシャワ条約機構を解散したのです。いま、プーチンのもとで『新冷戦』といわれる状態にありますが、ロシアの言い分としてはこれがあるのです。

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