第6話 ゴルバチョフの時代

ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(1931年3月2日 - )はソ連成立後に生まれた初めての指導者であった。1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任し、内政では停滞していたソ連の政治経済の抜本的改革を目指しペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行、外交では新思考に基づき東欧の民主化革命を支持し冷戦を終結させた。

しかし、ソ連国内の民族主義を抑えることができず、保守派と改革派に国内の政治勢力が分裂するなか、1991年の「ソ連8月クーデター」を招き、新連邦条約締結に失敗した。結果として、ソ連共産党の一党独裁体制とソ連邦そのものを終結・崩壊へと導くこととなった。

 

1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞した。日本を含む西側諸国では絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で親しまれたものの、ロシアや旧ソ連諸国内ではアメリカと並ぶ二強国であったソ連を崩壊させたことから評価が分かれている。


生い立ちは1931年3月2日、ロシアのスタヴロポリ地方のコルホーズの農民の子として生まれる。1950年、19歳のときにスタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学。同大学にて、のちの妻となる哲学科の学生ライサ・マクシーモヴナ・チタレンコと出会う。卒業後、故郷のスタヴロポリに戻って地元のコムソモール(共産党の青年組織)活動に従事する。1952年ソ連共産党に入党。1966年のスタヴロポリ市党第一書記を皮切りに、1970年にスタヴロポリ地方党第一書記に就任し、1971年には40歳の若さで党中央委員に選出される。この間、スタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、1967年に科学的農業経済学者の資格を得ている。ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の党官僚として階梯を登り始めた時期は、フルシチョフの非スターリン化が実施された時期であり、ゴルバチョフにも影響を与えたとされる。ブレジネフの死後、アンドロポフ(スタヴロポリの同郷)が書記長に就任すると、ゴルバチョフは、No.2に当たるイデオロギー担当書記に引き立てられた。アンドロポフの死後に書記長となったチェルネンコは病弱であったため、ゴルバチョフは「第2書記」としてチェルネンコを内裏し、次第に改革派としてその名が知られるようになる。この第2書記の時代、イギリスを訪問し、首相のサッチャーから「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受けた。1985年3月、チェルネンコの死去を受けて、ソ連共産党書記長に就任する。高齢の指導者が続いたあとでもあり、若い指導者(当時54歳)への期待は大きかった。

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