第4話 フルシチョフの時代

スターリン批判

フルシチョフの時代はあの有名な『スターリン批判』から始まる。第20回党大会において、外国代表を締め出し、スターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表した。特に粛清について発表された数字は世界に衝撃を与えた。第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち、98名が処刑、党大会の代議員全体1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた「反革命」の罪状は、その大半が濡れ衣であったと言うものであった。スターリン批判はスターリンの個人批判にとどまり、それが可能にになった体制の問題にまで掘り下げられなかった。


内政

スターリン批判によって重い空気は取り払われたが、政治体制、経済政策はスターリン時代を踏襲したものであった。消費産業に一定の配慮はされたものの、軍需・重工業重点は変わらず、5か年計画は継続された。農業政策に通じていた彼は、農業改革を実施。西シベリアや中央アジア等の処女地開墾を行い食料・農産物の増産に成功する。特に中央アジアでは大規模灌漑で、綿花生産は大きな成果を挙げ、一帯は綿花地帯と化し綿工業も発達した。農業生産での成功で、数年の間にアメリカを追い越すとフルシチョフは豪語するようになった。実はソ連は広大な耕作地を持ってはいたが、気象条件に左右される環境にあり、相次ぐ戦乱、集団化の失敗等で悩みは農業問題で、食料が自給出来なかったのであった。

しかしこれらの成功も、本来地味の痩せていた西シベリアでの穀物増産は無理が来て天候不順には耐えられなかったし、またシルダリア、アムダリア両河川の水量低下はアラル海の大幅な縮小という水危機は「世界最大規模の自然破壊」と後世まで批判される結果を招いた。一時は成功したかに見えたが、自然環境を無視した農業開発は結局失敗に終わり、フルシチョフはその責任を問われることになる。


軍事目的やソ連の宣伝も念頭に宇宙開発を推し進め、スプートニクやボストークの打ち上げに成功し、宇宙開発競争においてアメリカをリードするようになった。技術力に自信を持ったフルシチョフは、工業生産でもアメリカと並ぶのは近いと、その目標を5か年計画に加えた。


外交・雪解けとキューバ危機

フルシチョフの外交政策といえば、『平和共存路線』。1959年にはアメリカをソ連の指導者として初めて公式訪問した。世界はこれを冷戦下の「雪どけ」と評して歓迎した。しかし1962年に起きたキューバ危機ではアメリカとの核戦争の瀬戸際まで進むという緊張が生じた。ケネディ、フルシチョフの瀬戸際での会談で双方が譲歩し戦争を回避した。中国毛沢東はこれを弱腰と批判した。


こうして社会主義圏では中華人民共和国とソ連は激しく対立した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント)を北京の毛沢東指導部は「修正主義」と批判したものであった。中ソ関係は急速に悪化する事となり、代わりに中国は、アメリカとの関係の修復に向かうという皮肉な結果を生んだ。また、ハンガリーの民主化運動に武力介入し社会主義国が一枚岩でないことを見せた。


1964年10月、農業政策の失敗、キューバ危機の対処を弱腰と批判されフルシチョフは解任された。

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