第3話 スターリンの時代

万国の労働者よ、団結せよ!レーニンもトロツキーも、遅れたロシアで、到底一国で成し遂げられることではなく、全世界のプロレタリアートに期待した。特に、同じような戦争の惨禍にあるドイツのプロレタリアートの革命に期待した。ドイツの革命はフランスにそしてヨーロッパに波及し、ロシアの孤立はなくなると期待したのである。しかしそのドイツでは1918年皇帝は倒されたが、ドイツ革命は成功しなかった。


レーニン亡き後の後継を巡ってトロツキーとスターリンの権力闘争は、もはや世界革命の夢が去った状況下では一国社会主義を唱えるスターリンが勝利した。スターリンはネップの経済政策をやめ、第一次五ヶ年計画を開始する。

それは重工業重視による『生産力至上主義』に基づく産業化政策であった。産業化を後方で支援するための農業の集団化(コルホーズ)をセットとした。それは農業の大規模化を目指したものであったが、農作物を自動的に強制徴発できるシステムでもあった。農業部門を収奪しての工業化であった。世界経済から孤立したことが幸いして1930年代の世界恐慌で欧米の資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに驚異的なペースの工業化と高い経済成長を達成した。このことは欧米から驚嘆され、知識人の間では理想視された。

ただこれには広範な飢餓地帯(とりわけウクライナ)と大量の犠牲者を生み出したことや、強制労働のような闇の部分は隠されていた。


レーニンやトロツキーの時代のボルシェビキは、党内論争は活発で、党内分派を認めるものであった。スターリンの組織論は「党は実践集団であって、討論クラブではない」という命題によって、「一枚岩の民主集中制の絶対原則」として分派形成を禁止するものであった。この「原則」が、「指導部批判=敵対者」と規定される土壌を作り出し、スターリンの個人的性向も加味して批判者・敵対者の大粛清に繋がっていくのである。


プロレタリアの独裁は党の独裁になり、党の独裁は個人の独裁に変形されていくのである。東欧の共産党政権も、例外なくこの「原則」を倣っていくことになる。ここに党内官僚主義が発生し、これは党内にとどまらず、政府機関、地方組織、社会組織・団体にまで波及し、大量のノーメンクラトゥーラ(社会主義国におけるエリート特権階級)を生み出すのである。スターリニズムに基いて成立した一国型社会主義(ソ連型社会主義)は東欧諸国にも適応されこれらの国でも独裁政権*を生んでいくことになる。また国際共産主義運動は多様なあり様が否定され、ソ連の国家利用に使われるようになっていった。


*注:東ドイツのホーネッカーは18年、ブルガリアのジフコフは実に35年、ルーマニアのチャウシェスクは22年、チェコスロバキアのフサークは20年、ポーランドのゴムウカは14年。長期政権でなく推移したのはハンガリーぐらいであった。


第2次大戦でのドイツとの戦いは大祖国戦争と呼ばれ、勝利したスターリンは祖国の大英雄となったが、国土は戦場となり、膨大な人的・物的被害をもたらした。人命の損失は2000万から2600万、農地や重化学工業設備の多くが破壊され、国富の三分の一が失われたといわれる。これは連合国では突出した犠牲であった。

しかし進駐した東欧を衛星国とし、日本からは北方領土を獲得しその勢力圏を拡大した。勝ったことによって威信は増し、中国も社会主義国として列に加わり、社会主義を目指すリーダーとしてアメリカに対抗する大国と認められることになった。

スターリンは戦後すぐさま1946年に第4次5か年計画を発表した。この計画は従来どおり重化学工業軍事技術の発展をめざすものであり、また原子力開発を重視し、1949年には核実験に成功した。冷戦下の代理戦争の朝鮮戦争を経て1953年3月1日スターリンは亡くなった。

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