第2話 レーニンの時代

レーニンは全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した。これはフランスやイギリスなどの同盟諸国から無視された。ソビエト政府はドイツやオーストリア・ハンガリーとの単独講和へ向けて交渉を開始した。ドイツ側は足元を見て厳しい要求を突き付けてきた。ソヴィエト政府これを拒否した。ドイツ軍がロシアへの攻撃を再開し、ロシアは屈辱的な講和条約を結ばざるを得なかった。3月3日、ソヴィエト政府は当初よりさらに厳しい条件での講和条約(ブレスト=リトフスク条約、ドイツの敗戦によって無効となる)に調印した。左翼社会革命党はこの講和条約に反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した。ソ連は何も最初から一党独裁ではなかったのである。

マルクスはプロレタリアートの独裁は言ったが一党独裁は言っていない。レーニンが反革命の内戦、列強の干渉戦争の体験を通じて共産党の一党独裁を理論化したのである。


プロレタリア独裁の国家を認めない資本主義列強(英、仏、米、日)は反革命軍を応援するとともに干渉戦争に乗り出した。赤軍の奮戦によってなんとかこの干渉戦争と内戦に勝利した。レーニンは1918年6月に一時期廃止された死刑を復活させ、チェーカー(反革命を摘発する秘密警察組織)を発足させた。チェーカーには裁判所の決定なしに、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられた。これが後のスターリンの粛清の引き金となっていく。


第1次世界大戦の戦争で疲弊していたのに、この内戦と干渉戦争はロシアにとってさらに過酷な条件を課した。都市部と赤軍に武器と食糧の供給を続けるために政府は農村部から苛烈な徴発を行った。このため農民は食糧生産に協力しなくなり、都市労働者は少しでも食糧を確保しようと地方へ流出、それにより工業製品と食料品との間の公正な取引がいっそう困難になり、都市生活者の窮状に拍車をかけることになった。

1918年から1920年までの間にペトログラードの人口の75%、モスクワの人口の50%が流出した。ロシア各地で闇市が生まれ、戒厳令を発令して不当利得者の取り締まりを図ったが効果はなかった。ルーブルが暴落して物々交換が主流となり、1921年までに重工業生産額が1913年水準の20%にまで落ち込んだ。給与の90%が現物支給され、機関車の70%に補修が必要となり、食糧徴発、7年間の内戦、さらに大規模な旱魃による食糧不足で300万~1000万人が餓死したとされる。この時に取った統制経済を戦時共産主義という。


戦時共産主義による国民の疲弊を救うために、内戦終結後、ネップ(新経済政策)へと政策転換した。これは残余農産物を市場で自由に売買してよいことを認めたような一部市場経済を認めたものであり、また小規模な商工業者の自営を認めた。これにより生産力は一定程度回復したが、〈ネップマン〉と呼ばれる私的商人・私的実業家の出現を許し社会主義体制との矛盾が生じた。

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