第8話 社長の健吾さん

『社長の健吾さん』と雨宮は何回か飲む機会があった。その時、シネマの創業の話をしてくれた。


健吾は奈良の木津川村の出身である。今でこそ車で行けるが、戦前はバスも通らない山奥の寒村であった。小学校を出るとすぐ本町の繊維問屋の丁稚に行かされた。健吾は何故か上の人に可愛がられるとこがあり、活動写真と称した頃、活動写真好きの主人のお供をして映画を見る機会に恵まれた。なんと面白いものと感じ入った。そのときはまさか映画館を経営するとは思ってもいなかった。


ただ、いつまでも使われるのではなく、将来は自分で商売をしたいと思っていた。徴兵で満州に行かされたが、内地に帰って来て姫路の部隊でトラックを運転していた時に終戦になった。


健吾の運はこの日で変わった。そのまま部隊に帰ることなく、トラックを運転して大阪に向かったのである。戦争に負けても一向に悔しくも、悲しくもなかった。「俺の時代が始まる」と思ったのである。そもそも、この戦争は負けると思っていた。負ける戦争で死ぬのはアホやと思った。昭和14年、満州でノモハン事件に遭遇している。ソ連の戦車部隊にコテパンにやられたのである。そのとき、アメリカと戦争したら勝つ見込みはまずないと確信したのである。兵隊の階級もない。旦那も丁稚もない時代が「よーい、ドン」になったと思ったのである。


健吾には思う人があった。終戦となって「どうしているのだろう」と、やたら気になったのである。本町の元の勤め先のお嬢さんであった。


行ってみると店は焼けてなく、近在の知っている人に行き先を聞くと、主人の奥さんの実家が奈良の平群(へぐり)にあり、そちらに身を寄せているとのことであった。トラックを奈良に向かわせた。主人一家は再会を喜んでくれ、それが縁で近在から食料物資を調達しては大阪で売り捌いた。トラックは貴重な戦力となった。主人は「息子もいるわけでもないし、このまま田舎で百姓を続ける」と言った。こうして健吾の「お嬢さんを下さい」は快く受け入れられたのである。戦前だったらまず、無理だったろう。


戦後の混乱期を話す健吾の話は面白く、とっておきのこんな話をしてくれた。


《あんたの賞を貰った作品読まして貰いましたよ。健一の机の上に置いてあったもんだからね。面白かったです。あんなのを映画にしたらはやるのにね。業界も目がおまへんなぁー。小説家さんやからなんぞの参考にして下さい。そら闇屋はよう儲かりましたよ。でもしょせん闇屋いつまでも続くものではおません。天王寺で土地の売り物がありましてね、インフレでお金の値打ちは持ってればどんどん下がります。それで土地を買いました。その頃、銭湯も壊れたり、家風呂もなく行水で凌いだりしていました。それで風呂屋をしょうかと思ったのですが、ただの風呂屋じゃ面白くない。温泉に行った気分になってもらおうと、脱衣部屋のついた家族風呂を作って『有馬』としたんです。それはよう繁盛しました。2ヶ月間、行列が切れなんだほどです。それがね、あらぬ方向に使われるようになったんですわ。住宅事情が悪く、親戚同居、間借りが当たり前の時代です。男と女の密会場所になってしもうたのです。大人しい加代がこの時だけはえらい反対したんです。『カッコ悪うて、外も歩かれへん。この子が大きゅうなったときどないしはるんですか。やめてやなかったら実家に帰ります』とカンカンですわ。夫婦別れしてまでするもんでなし、渋々、ぜひと言う人があって売ったんですわ。その人今、ホテル王とか言われて、大阪で何軒もラブホテル持ってますねん。わては映画館主で青息吐息ですわ。笑える話でっしゃろ』


健吾は小さい体で、温和な目をしていて、どこにそんな行動力があるのかと思わせるが、才覚という賢さを持っている人だと雨宮は思った。そして、笑っていいのか、どうか迷ったが、笑って「それは惜しいことをしましたね。でも、それやったらハシケンは跡を継がなんだと思いますよ」と言った。


「そうですねん。彼奴が学生時代、2階をピンク映画*に変えましたんや。なんせどこも大入りです。『映画館の堕落や』と言いよりまして、『経営も分からんのに、偉そうな口聞くな』と喧嘩してしてもうて、彼奴が跡継がんゆうて、アパレルに3年程勤めたんはそんなことがあったんですわ。それ以来、あれは私を嫌っているようです。今は一生懸命頑張ってくれてますので、そろそろ代譲りしょうかと思ってます。ただ、映画業界もこの先どうなるのか…心配したりますわ。わたしはええ時代も経験しましたから悔いがありませんけど…」。


その時の社長健吾さんの寂しそうな顔を雨宮は覚えている。ハシケンはアパレル時代に由美子と知り合い、結婚するために跡を継ぐことを了承したが、結局、シネマを愛しているのだと雨宮は思った。


この話をもとに、『ホテル王になり損なった男』というタイトルで、雨宮は小品を書いて、これは雑誌に取り上げられた。

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