第19話 その後のドイツ共産党
当初の党名は「ドイツ共産党・スパルタクス団」であった。設立早々、リープクネヒト、ローザらを失ったドイツ共産党はその後どうなったのであろうか?
蜂起失敗後、スパルタクス分派時代からの古参であったパウル・レヴィの指導の下で武力闘争路線を修正し、1920年6月6日の議会選挙に参加した。
(1)コミンテルンの傘下・二転三転
1920年10月、独立社会民主党がコミンテルン加盟をめぐって分裂した。左派は共産党(KPD)に合流し、右派は社会民主党に復帰した。KPDはコミンテルンに加盟した。しかしコミンテルンは方針への絶対服従を要求した。レヴィは反発したが、結局、指導者の地位から降りざるを得なくなった。新たな指導者にはハインリヒ・ブランドラーがついた。
コミンテルンはハンガリー革命の指導者クン・ベーラを派遣し、ドイツ共産党に武装蜂起路線をとらせた。1921年にはドイツ中部のマンスフェルトで大規模な蜂起を行い、街を数日間占拠したが、国防軍の手で鎮圧された(中部ドイツ三月蜂起)。
やがてドイツ政府との協調に転換した第3回コミンテルン大会で、この蜂起は厳しく批判されたが、同様に蜂起を批判したレヴィは党から除名されている。コミンテルンの路線転換により、しばらくの間共産党は過激活動を停止した。
(2)コミンテルンの失敗・10月ハンブルク蜂起
1923年のフランスのルール占領はドイツの政治危機を呼び起こした。コミンテルンは再度武装蜂起の方針を決め、ドイツの党の指導部をモスクワに呼びよせて蜂起の詳細な計画を作成した。しかし同年10月の蜂起は直前に中止が決定され、不発に終わった。連絡ミスで蜂起を開始したハンブルク(10月蜂起)でも戦闘は数日で終わり、この失敗によりフランドラーは解任され、以降フィッシャー、マズローらの後に労働者出身のエルンスト・テールマンが指導者となった。
(3)テールマン時代
共産党はヴァイマル共和政、ヴェルサイユ体制打倒(これでは、ナチと一緒のスローガンではないか?)を旗印に、ベルリン・ハンブルクなど大都市を牙城に勢力を伸ばしていった。1929年の世界恐慌による不況が深刻化する中で、ドイツではヴァイマル共和政への失望が高まり、共産党は、下層階級を支持基盤に急速に勢力を拡大させ、世界でも有数の共産主義政党に成長した。共産党の宣伝手法、視覚的なプロパガンダには優れたものがあり、ヒトラーがこれを参考にした。
共産党はコミンテルンの指示のもと社会民主主義を敵視する社会ファシズム論*へ傾いていたこともあり、社会民主党打倒という点でナチスとは協調路線をとる。1932年1月、コミンテルンから派遣されたドミトリー・マヌイルスキーは、「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べ、これを受けて共産党のヘルマン・レンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べている。
この間にナチスは保守層からの支持と、資金を有効に使い共産党以上に勢力を伸張させ、危機意識をもった共産党は社会民主党に反ナチス共闘を持ちかけるが、社会民主党はこれを拒絶する。
1933年1月30日、ヒトラー内閣が成立する。
ヒトラーは首相に就任すると議会を解散し選挙を行った。選挙期間中の2月27日に国会議事堂放火事件が発生し、共産党の犯行であるとして党は解散させられた。それでも選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、ナチスによって全員が逮捕され、あるいは逃亡・亡命を余儀なくされた。これによって、ヒトラーが目論んだ「全権委任法」は成立した。3月23日に全権委任法が成立した後、共産党は3月31日に制定された法令で結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された。
*注釈
社会ファシズム論と反ファシズム統一戦線
社会民主主義をファシズムと同一であるとする見解で、ファシズム勢力より社会民主主義勢力への敵対と打倒を優先すべきとする。1920年代後半から1930年代前半に、スターリン下のコミンテルンの方針。特にナチス伸張期のヴァイマル共和国時代のドイツ共産党の実践によって顕著であった。
世界恐慌下でのこうした左派政党内の対立は、労働者大衆の彼らへの失望とナチスへの期待を助長させる結果となった。ナチス政権成立の直前では共産党と社会民主党の合計議席数はナチスを上回っており、両政党が連携していればファシズムに対抗する効果的な方策を打ち出すことも可能であった。
コミンテルンが民主主義勢力まで含めた反ファシズム統一戦線を掲げたのは、1935年の第7回大会であった。この時にはすでにドイツ共産党は消滅していた。
結局、コミンテルン(第三インター)はソ連の主導のもと、ソ連の国のその時の状況の変化により、方針が二転三転したのである。押し付けられた革命は失敗するのであろうか。
*スターリン主義に反対していた、トロツキーは社会ファシズム論を批判し、ドイツ共産党と社会民主党は連帯してナチスに立ち向かうべきだと主張したが、ドイツ共産党からは聞き入れられなかった。この件に関する論考は、トロツキー死後の1962年と1969年に「社会ファシズム論批判」として出版された。
*掲げられるべきスローガンは反戦平和、反ファシズムではなかったかと思う。
資料:共産党の選挙結果の表
ライヒスターク(国会)選挙結果
選挙日 得票率 獲得議席数(総議席数) 議席占有率 順位
1920年6月6日 2,1% 2議席(459議席) 0.4% 第8党
1924年5月4日 12,6% 62議席(472議席) 13.14% 第4党
1924年12月7日 8,9% 45議席(493議席) 9.13% 第5党
1928年5月20日 10,6% 54議席(491議席) 11% 第4党
1930年9月14日 13,1% 77議席(577議席) 13.35% 第3党
1932年7月31日 14,3% 89議席(608議席) 14.64% 第3党
1932年11月6日 16,9% 100議席(584議席) 17.13% 第3党
1933年3月5日 12,3% 81議席(647議席) 12.52% 第3党
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