第10話 ドイツ革命4 カップ一揆

(5) 1920年3月13日 カップ=リュトヴィッツ一揆

*語句の説明、国軍は正規軍、国防軍とつかった場合は正規軍と義勇軍を合わせたものとする。義勇軍は正規軍でない準軍事組織。資金は資本家が負担し、政府が補助を与えた。


革命の季節は去ったように思われた。1920年1月10日ドイツ軍を10万に制限するとしたベルサィユ条約が効力を発した。義勇軍を入れた国防軍は40万の兵力に達していた。義勇軍は国土防衛のためでなく、反革命のための部隊であった。実際のところ、もう必要なかった。だが、彼らは解雇されたくなかったし、政治的将軍たちも自分たちの政治権力道具を放棄するつもりはなかった。

そんな中、義勇軍の一つはベルリン地区司令官フォン・リュトヴィッツ将軍の指揮下にあった。1920年3月にノスケ国防相からエァハルト海軍旅団に対して解散命令が出された。リュトヴィッツ将軍も旅団も激しく抵抗し、政治家ヴォルフガング・カップを担ぎあげて蜂起した。


1920年3月13日の早朝、海軍旅団はベルリン市内ブランデルブルグ門を目指した。国防大臣ノスケは、国軍に対して治安出動を命じた。しかし参謀総長ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」と拒否した。国防軍の一方は、政府を武力で打倒する決意をし、他方は政府を防衛しない決意をした。政府に対してはどちらも叛乱だった。大統領エーベルト内閣メンバーはベルリンを脱出してシュトゥットガルトに逃れた。

もはや守ってくれるものがなくなったエーベルトは窮余の一策を打った。いかなる手を使ったのか!労働者にゼネストで起ちあがるよう要請したのである。1年前にはその部隊と一緒になって血を流して革命を精算していたのにも関わらず、反革命に対して「革命」という言葉を口にしたのである。


労働者は敢然とゼネストで立ち上がった。ドイツがこれまで経験した中で最強のゼネストだった。首都は勿論、国中の機能が停止した。一揆政府は成立の二日目から、その統治能力は完全に奪い取られた。中央となる計画も指導部もなかったが、以前と同じように反軍国主義、議会民主主義の戦いと位置づけた。

これに対して、独立社会民主党は「社会民主党は我々をまるで犬扱いにした」と、当初はストライキに同調しなかった。ベルリンの共産党は「我らの同士、リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクを殺害した政府のために指一本動かすな」と呼びかけた(多分二人は墓場から叱責したであろう)。こうしたことは全く効果を持たなかった。両党の支持者たちもこぞってストライキを行ったし、指導者たちも党員に同調するほかなかた。

反革命は仮面を脱いで立ち、社会民主党も革命という言葉を発したのである。1918年11月9日以来の社会主義者の統一の時が再来したように労働者大衆には思えたのである。ルール地方ではストライキは武装革命に転化した。労働者大衆は1年前以上に必死であった。白色テロを身を持って経験していた彼らは、自分たちが打倒されてしまえば、何が待っているか知っていた。ルール地帯では即席の赤軍が勝利をおさめ、ルール地帯全域が武装労働者の支配下に入った。

最終的に破れたと思われていた革命が昂然と頭をもたげてきたのである。事態の急変に恐れおののいたブルジョア諸政党は連帯した。カップと反乱軍がゼネストによって打倒されてしまうことは、革命勢力を勢いつかせるので望ましくなかった。一揆政府に自発的な退陣に踏み切らせなければならない。新選挙、内閣の改造、一揆加担者の恩赦を申し入れた。こうして、エァハルト海軍旅団はベルリンを撤退した。撤退を見守る市民からの野次に対して発砲で応じる暴挙をなした。これによって数十人の市民が犠牲になった。なんとか、エーベルト政府閣僚たちは首都に帰還できたのである。カップは国外追放、国防相ノスケはこの事件の責任を取る形で国防相をやめさられた。あとは、お咎めなしとなった。


ベルリンに戻れた政府の第一の関心事は、継続中のゼネストをやめさせ、ルール地帯を占領している赤軍の武装解除だった。ゼネストの終結をためらっている組合指導者には、出来もしない一揆加担者の厳罰と言った約束等で懐柔した。ルール地帯の赤軍に対しては、いきなりの武器放棄の最後通牒を突きつけ、国防軍にその処理を任せたのである。国防軍は今回の一揆に参加していた部隊を承知の上で投入した。これらの部隊はその真価をいかんなく発揮した。彼らの行動については、参加した旅団のある兵士の手紙が示している。


「予備軍第一野戦病院第9病棟御中・20年4月2日


親愛なる看護婦の皆さん、そして患者の皆さん!

やっとのことで自分の中隊に着きました。昨日の朝には着いたのですが、午後1時には我々は最初の攻撃をしました。みなさんにそれをすべて書いたら、嘘だと言われるでしょう。まったく容赦などはありません。負傷者でも我々は射殺します。興奮はものすごく、ほとんど信じられないほどです。我々の大隊は2名の死者を出しました。赤軍の死者は200~300名です。我々の手に落ちたものは全員、銃床で打倒され、それからさらに弾を撃ち込まれます。

私は戦闘の間ずっとA病棟のことを考えていました。といいますのも、我々は10名の赤十字看護婦も即座に射殺したからです。彼女らは皆ピストルを持っていました。彼女らがどんなに泣き、助けを乞おうとも、我々は彼女たちの命を奪ったのです。なにもかまわずに!武器を持っているのが見つかったものは我々の敵なのですし、年貢の納めどきなのです。我々は戦場のフランス人に対してはずっと人道的でした。野戦病院はお変わりありませんか?

居酒屋では、しばしば、我々二、三十人の勘定をまけてくれます。私の宛先を書いておきます。


狙撃連隊下士官マックス・ツィラー、学生第一中隊、エップ旅団ヴェストファーレン、ロコウ郵便局」

この兵士がなぜ野戦病院の看護婦や患者に手紙を出したのかはわからない。一人胸にしまい込むのが辛すぎたのか?(命令とはいえ)殺害に加わったことの自慢ではないことだけは確かである。


こうして、カップ一揆は終わった。議会は解散され、新国会の選挙が行われた。社会民主党は因果応報の罰を受けた。一挙に支持者の半分を失った。1919年1月国民議会選挙の際1250万あったが票が550万票になったのである。社会民主党が崩壊したため、ワイマール連合も議会での過半数を失った。ブルジョア連合政府の時代が次の主人の登場(誰を指すのか)まで続いた。

その後も、1921年の中部ドイツ3月蜂起、1923年フランスのルール占拠にともなうハンブルク10月蜂起等があったがいずれも国防軍によって鎮圧され、革命的機運は完全に消滅した。

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