第9話 ドイツ革命3 スパルタクス団の蜂起
(4) 1919年1月闘争・スパルタクス団の蜂起、
1月5日にベルリンで起こったことを前もって計画したり、あるいは予見したものは誰もいなかった。それは自然発生的な大衆の爆発だった。その契機は独立社会民主党の党員で唯一要職にあったベルリンの警察長官エミール・アイヒホルンが臨時政府によって解任されたことである。警察長官は首都ベルリンを守る保安隊を統括する。
アイヒホルンは解任を拒否し、同党のベルリン支部に支援を求めた。独立社会民主党、革命的オプロイテ、設立されてまもない共産党は罷免に反対する抗議デモを呼びかけた。これが呼びかけた彼ら自身が驚くことになった。集まったデモの大衆は予想をはるかに超える規模で、中には武装した集団があった。これらの集団が新聞社街の通りを封鎖し大手新聞社全てを占拠した。これらの新聞は革命派を敵視する記事を印刷していた。当日押し寄せた人々は、50万人に上るデモに発展した。しかしストの指導者たちは巨大なデモに呪縛され、どうしていいか続行方法を決定できなかった。武装闘争を主張する者がいれば、エーベルトとの対話を求める者もいた。いつ暴徒化するかしれない労働者達も武装したままビル街に居座った。
大衆の熱気が指導者を動かし「反政府闘争を開始し、政府を打倒するまで戦い抜く」決議がなさ、『革命委員会』が形成された。翌日月曜日、大衆は再び街頭に出た。日曜日より人数が多かったぐらいである。しかし、この革命委員会はなんの指示も出さなかった。
これには、現場指導者と党本部の食い違いがあった。共産党の内部でさえ方針に対する意見の一致は見られていなかったのである。ローザ・ルクセンブルクはレーテに結集して、国民議会選挙にも参加する方針を述べたが、リープクネヒトはエーベルト政府打倒を計画する労働者階級と疎遠になることをおそれ武装闘争の意見であった。採決の結果、リープクネヒトの意見が通った。独立社会民主党内では、闘争継続と政府との話し合い妥協の間で揺れていたのである。人民海兵団はこの事態に武装闘争に加わらず「中立」を宣言した。
1月6日、エーベルトは国防大臣グスタフ・ノスケ*に最高指揮権を与え、ドイツ義勇軍の武力を用い、デモを鎮圧することを早々に決めた。義勇軍の武力装備は圧倒的に優位であった。労働者が占拠していた通りや建物を急速に奪還した。労働者の多くが降伏し、また多くの労働者が射殺された。数知れない市民もこの戦闘の巻き添えとなり死亡した。1月15日、リープクネヒトとローザは近衛騎兵・狙撃師団に捕らえられ、殺害された。
敵状視察に出向いたノスケは後日、「急ぎの用事があるので通して欲しい、と繰り返し丁寧に頼んだ。そのたび道はこころよく開けられた。もしこの大群に饒舌家ではなく、断固とした、目的をはっきり意識した指導者がいたとしたら、彼らはこの昼にはベルリンを手中にしていたであろう」と、語ったとされている。
*人物 年齢は1918年革命当時の年齢である。
カール・リープクネヒト(47歳1871年- 1919年1月15日)
ライプツィヒで生まれライプツィヒ大学・ベルリン大学で法学や経済学を学び、弁護士となった。社会民主党左派の議員となる。一貫して戦争に反対した。その姿勢で、彼は個人としては労働者大衆からは尊敬されていた。何より、父ヴィルヘルム・リープクネヒトはドイツ社会民主党の創立者の一人であった。1916年からローザ・ルクセンブルクとともに、社会民主党左派としてスパルタクス団を組織した。同じ年、反戦デモの煽動者として投獄されたが、1918年のドイツ革命勃発直前の10月に釈放されている。
グスタフ・ノスケ(50歳1868年‐1946年)
学校卒業後、職人修業を経て工場労働者となる。修業中から労働運動に身を投じる。1884年に社会民主党(SPD)に入党。SPD主導の臨時政府からヴァイマル共和政の最初期にかけて、国防相を務める。エーベルの鎮圧命令に対して、ノスケは「いいとも、誰かが血に飢えた猟犬にならねばならぬ。私は責任を逃れない」と語ったという。スパルタクス団蜂起に続いて、レーテ共和国の鎮圧にも義勇軍を使った。第二次大戦末期、ナチスに逮捕され強制収容所に収容されたが、終戦とともに解放された。
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