第8話 ドイツ革命2 首都ベルリン

(3) 首都ベルリン


1918年11月9日

首都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋め尽くされた。警視庁、市役所などがデモ隊に占拠され、政治犯は釈放された(この日、ローザ・ルクセンブルクも釈放された)。圧倒的な労働者大衆を見て、兵士らの多くも革命の側に移行した。これに対してマックス大公は、革命の急進化を防ごうと独断で皇帝の退位を宣言し、政府を社会民主党(SPD)党首フリードリヒ・エーベルトに委ねた。しかしベルリン各地では複数のレーテが結成され、事態は一向におさまる気配をみせなかった。この時、カール・リープクネヒト*が王宮のバルコニーから「社会主義共和国」の宣言をした。このことを聞いた社会民主党のもう一人の代表であるフィリップ・シャイデマンは、議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言した。その日の内にヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、後日退位を表明した。


皇帝は逃亡し、首都は革命の大波に包まれた。議会にも軍部にも収拾の力量はなかった。この時点で政治権力を目指したのは、一つはエーベルトを頂点とする社会民主党、これまで戦争に協力してきた「社会主義者」たちによって代表される。

もう一つはレーテを権力基盤にしょうとする運動であり、戦争に反対してきた「社会主義者」革命的なオプロイテ*と、スパルタクス・ブント*によって推進されることになる。


*革命的オプロイテ:職場や工場の組合指導者で、彼らは100名のグループからなり、12の核を持っていた。独立社会民主党左派やスパルタクス・ブントに近かった。

*スパルタクス・ブント:社会民主党が戦争支持に方針を決めたとき、ローザやリープクネヒトが反戦派で作った党内分派グループ。独立社会民主党がSPDを出たとき、行動を共にする。


11月9日の夕方、国会の中は混乱し、喧騒の中にあった。武装した労働者や兵士が出入りし、議場の前では興奮した人群れが議論しており、議場の中からは活発に入り乱れた声が聞こえた。夜の9時になって、選出されたと称する兵士評議員で満員になった。10時頃になって革命的オプロイテの代表が現れた。社会民主党と独立社会民主党の政府合意がなされようとしていた。この日、革命的オプトロイテやスパルタクス分派は、混乱を収め社会民主党主導の政府形成に反対する目標を達成できず、翌日10日の労働者・兵士評議会(レーテ)の大会招集を決めるのがやっとであった。


その日のエーベルトの心境

エーベルトは「体制派」の左派、旧体制の最後の予備軍だった。翌日にはすべての工場と兵舎で労兵評議会(レーテ)が開かれる。明日には事態がさらに進展し、今日よりは遥かに危険で組織的、かつ果敢になることははっきりしている。社会民主党の党員で多数は見込めるが、反対勢力も姿を現していた。今日の混乱と熱気をみればどう転ぶかも知れない。評議会選挙をやめさせ、評議会の集会を禁止し、必要なら砲撃によって壊滅させるのか、火に油を注ぐことになりはしないか、エーベルトは躊躇した。

マックス公から得た資格認定書(臨時首班指名)はもう正統どころではなかった。「人民委員評議会」の資格認定書が要ったのだ。初代議長にならなければならなかった。党員を動員して評議会を乗っ取らなければならなかったのである。

独立社会民主党の言うことは全てのもう。そして連立をまとめ上げ、社会主義者全体の政府という既成事実によって、集会に参加している労働者と兵士に対抗しなければならない。

和解、統一、「兄弟で争うな」一致団結をスローガンにして勝たねばならない。


11月10日・ベルリンの労働者・兵士レーテの大会

日曜、午後5時、ベルリンの労働者・兵士レーテの大会が曲馬館で3000名近くを集めて開催された。集まった労働者たちは二つの党の協力を望んだ。大会は社会民主党主導で進んだ。社会民主党と独立社会民主党の両党から3名の同数出す臨時政府(人民委員会評議会)が大会で報告され、圧倒的多数で賛同を得る。

革命的オプロイテも執行評議会を発足させる。執行評議会メンバー構成は労働者レーテから社会民主党、独立社会民主党、半数ずつの12名。兵士レーテから12名であった。同一の大会で選出された二つの執行機関のそれどれの権限の限界は、この時点では曖昧にされた。その後の力関係がこれを決めることになる。大会でのリープクネヒトの挨拶、軍とエーベルト政府の反革命の危機を訴えるも、統一と団結の声にかき消された。


グレーナーとエーベルトの同盟

軍のグレーナーは敗戦の責任を政府に丸投げしたのである。グレーナーは軍の無傷の存続を考えた。その上で、エーベルトに更なる革命に対す闘争の協力を約束した。エーベルトはその提案に乗った。ヒンデンブルクは何も知らなかった。あとでこの処置を了承した。既に反革命は動き出したのである。


11月11日、連合国との休戦条約が締結され、第一次世界大戦は公式に終結した。


12月16日~21日・全国労働者・兵士レーテの大会

ベルリンで第1回の全国労働者・兵士レーテの大会が開かれた。全国から集まった代議員の雰囲気は、首都の労働者大衆の革命的気分とはかなり違ったものであった。社会民主党の代議員が過半数を制していた。レーテか国民議会(憲法制定議会)か?大会の最大の争点はそこにあった。レーテ運動派は100票、国民議会賛成派は350票であった。翌年1月19日を選挙の投票日と決めた。議会成立まで立法と執行の全権を臨時政府(人民委員評議会)に移譲することを決議して、レーテは自らの革命権力の座を放棄してしまった。レーテはエーベルト社会民主党に乗っ取られたのである。

レーテか憲法制定議会か、まさに、ロシア革命のソビエト(労兵協議会)か憲法制定会議かの問題と同じであった。


*ハンブルク項目、エーベルト社会民主党におとなしく従った大会であったが、ハンブルク代表団が提案した軍制の徹底的改造案は圧倒的多数で決議された。その内容は、統帥権は人民委員(臨時政府)が中央評議会(レーテ)のコントロールの元に行使する。懲戒権は兵士評議会にある。将校の自由選挙、階級章の廃止、勤務外の上下関係は存在しないという反軍国主義的なものだった。将校団こそが反革命の脅威であることは自分たちの経験から知っていたのである。他の点では革命は控えめであったが、この一点では本気であった。この時点ではエーベルト・グレーナー同盟の存在は誰も知らなかった。


12月23日・人民海兵団事件

王宮を占拠していたのが、キール軍港蜂起の流れを汲む人民海兵団で、革命派が頼りとする部隊であった。臨時政府は占拠を解くように指示を出したが、海兵団はこれを拒否した。政府は給料の不払いでもって人員削減を図った。これ反対した海兵団のデモに対して軍の発砲があったことをきっかけにして緊張状態が生ずる。翌24日政府軍が海兵団宿舎を砲撃、市街戦となる。海兵団と政府の間に和解が成立するが、政府と旧軍部の結びつきが白日のもとに晒したこの事件は、政府と革命派との対立をいっそう先鋭にした。これに抗議して独立社会民主党は臨時政府から離脱した。


12月30日・共産党の結成

ローザ・ルクセンブルクやリープクネヒトらのスパルタクス・ブントは独立社会民主党から別れて、革命の先頭に立つ独立した党を持つことを決意し、ブントを中心に一部急進派を入れドイツ共産党(KPD)が結成された。しかし独立社会民主党の急進左派であり、スパルタクス団と近かった革命的オプロイテは合流しなかった。

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