第7話 ドイツ革命1 水兵の反乱

成功した革命は歴史上に名を残し、栄誉を手にする。例えばフランス革命やロシア革命のように・・、失敗した革命はいくら勇敢な血を流そうとも、正当な評価をされず、革命という名前さえ与えられない。例えばドイツ革命のように・・。


蜂起

(1) キール水兵の反乱


1917年のロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、1918年1月には全国規模の大衆的なストライキが行われた。アメリカのウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」に代表される公正な講和のアピールは、ドイツ政治家にも和平への道を選択させることとなった。そこで、戦争の敗北を覚悟した参謀本部次長のルーデンドルフは同年9月に政府に議会主義的改造と、休戦交渉の開始を要求した。こうして10月3日にバーデン公マックスを首班とする「階級融和」政府が誕生し、ドイツ社会民主党のエーベルトやシャイデマンらを閣僚に迎えて連立政権が生まれた。


 第一次世界大戦で長期の総力戦に疲弊したドイツでは兵士、国民の中に厭戦的な気分が強まっていた。マックス政府がアメリカの要請に応えて無制限潜水艦戦の中止を決定すると、海軍指導部は大艦隊を投入してイギリス海軍に決戦をいどもうとした。イギリス海軍に制海権を握られ、海上封鎖にあっていたドイツ海軍は潜水艦攻撃以外有効な手立てはなく、戦艦は軍港に眠っていた。これは陸軍に対して、単にドイツ海軍の威信を示そうとするだけのもので、成功する見込みは全くなかった。11月3日、キール軍港の水兵たち一部は、この命令を敢然と拒否した。無駄な死を拒否しただけではなかった。政府は講話を進めている政策なのに、これは海軍指導部の独走、叛乱ではないか。自分たちの行動は政府を守る行動であって叛乱ではないと考えたのである。

 叛乱を起こした戦艦と、将校の命令に従った戦艦とが砲を向けあって対峙した。一発打ってくれば、それはたちまち同胞同士の戦いになる・・息を呑む瞬間があったと、その時の緊張を砲についていた水兵は語っている。叛乱側が降伏した。その限りでは将校が勝利したと言えるが、艦隊の出撃は中止された。


叛乱した水兵1000名は拘束された。拘束された水兵たちは、軍法会議と死刑の危機が予想された。彼らの仲間はそれを傍観しようとはしなかった。11月4日、水兵の大暴動が勃発した。水兵たちは、艦船を引き継ぎ、赤旗を掲げ、水兵評議会を形成した。これに労働者が呼応し、最後にキール市を支配下に収めた。この反乱はたちまちにドイツほぼ全域に拡大し、11月7日から始まったバイエルン革命(後述)ではバイエルン王が退位し、君主制廃止の先例となった。在郷軍は兵士評議会を、工場では労働者評議会が形成された。この労兵評議会(レーテ)は大都市では一種の行政を引き継いだ。水兵と将校たちの間では散発的な戦いはあったが、拒否した水兵たちは無事釈放された。


ある艦では一人の水兵が、砲撃を命じた将校の前に進み出て、「戦場でフランス人と戦いたくさんの血を流したが、仲間同士でこれ以上の血を流すのはもういいのではないか」と言って、採決をしてその中隊は砲撃を中止したという。


(2) バイエルン革命・レーテ共和国

首都ベルリンに先駆け、11月7日にはバイエルン王国で革命が発生した。この革命はクルト・アイスナー*(独立社会民主党)が指導した。この革命はベルリンと違って初めから敵の手には落なかった。アイスナーは優れた指導者だった。彼は組織には支えられていなかったが、3ヶ月に渡ってこの地の状況を見事に支配したのである。

ミュンヘンの社会民主党の組織した政治大集会が開かれた。党の指導者エァハルト・アウアーは、何事も起こらないでしょうと、雰囲気を鎮静する約束を王国政府に約束していた。その日、アイスナーはバイエルン地方軍を説得して兵士協議会を立ち上げさせた。

翌8日、州議会議事堂で労兵協議会「革命議会」が開かれ、共和国を宣言してアイスナーを首相に任命した。王国首相は官邸を明け渡し、王は逃亡した。24時間以内にすべては完了し、革命の血は一滴も流れなかった。

人々が欲したのは、何よりまず終戦と軍部支配の打倒、及び君主制の打倒だった。彼はこのことをよく理解していた。これを成し遂げる新国家は労働者の国家でなければならないと考えた。それに農民を付け加えた。


彼の優れたところは、評議会(レーテ)か、議会かという二者択一の問題設定をしなかったことである。評議会支配か議会支配かではなく、革命か反革命かと考えた。二つの権力の間での「抑制と均衡」を考えた。評議会はできたばかりで未熟なので時間がかかると考え、できれば、州議会選挙を伸ばしたかった。そういうわけにもいかず、選挙は予想通り、バイエルンでは強い政党・バイエルン人民党が1位を占め、社会民主党がこれに続いた。アイスナーが属した独立社会民主党は3議席を占めたに過ぎなかった。


でも、彼はほとんどこれを気にしなかった。たしかに、ブルジョア層は依然として選挙民の多数を制していたが、戦争と終戦によって信用を失い、狼狽して消極的だった。一方労働者、兵士大衆は社会民主党、独立社会民主党いずれに投票しようとも、高い革命的興奮、活力、能力を持ち合わせていた。彼らの革命機関は政党ではなく評議会(レーテ)だった。アイスナーはさしあたり、議会での活動を社会民主党の地方代表アウアーに委ねるつもりであった。しかし、どのようなことがあっても、評議会の議長に留まり、必要ならば「第2革命」を指導するつもりだった。彼の狙いは新憲法の中に評議会を定着させることであった。


地方政府の革命に過ぎない、いずれ、中央政府が反革命の干渉をするであろう。彼が生きていてもどうなったかは分からない。2月21日の朝、書類カバンに辞任式辞を入れて州議会の開院式に赴くとき、彼は一右翼青年に殺害された。これにはもう一つ突発事故が起こった。この訃報を聞いたリントナーという肉屋の職人が州議会場に乗り込み、追悼演説中のアウアーを撃ったのである。負傷ですんだのであるが、彼はそれから数年は戦う力を失ってしまった。リントナーは背後には社会民主党の指導者がいるというのは考えるまでもないと思い込んでいたのである。アウアーはアイスナーの殺害にはまったく関係がなかった。


バイエルンの政治の中の実力ある指導者二人を失ったバイエルンは、ミュンヘンのみならず州全体でたちまちアナーキーな光景を呈した。州議会はパニックを起こして四散し、州政府の構成していた8名の閣僚のうち、一人は死に、一人は瀕死の重傷、一人は身を隠し、二人はミュンヘンから逃亡してしまった。ゼネストが呼びかけられ、戒厳令が布告された。アイスナーの写真が飾られた祭壇には数千人の人々が詣で、数日後の葬儀は怒りに燃えた悲しみの巨大なデモとなった。この混乱の中で比較的無傷に残っていた唯一の権威は評議会であったが、その後、急進派が握り、そして共産党が主導権を握り、それぞれのレーテ共和国が出来たが、いずれも中央政府の義勇軍によって鎮圧された。


*人物

クルト・アイスナー(52歳 1867年 - 1919年)

ユダヤ人の繊維工場主の息子としてベルリンに生まれる。ベルリンのフンボルト大学で哲学とドイツ学を学び演劇評論家として名を上げた。『フランクフルト新聞』をはじめ、さまざまな新聞の編集の職に就いた。ドイツ社会民主党の招聘に応じてその機関紙『前進』の編集員となり、1917年に社会民主党から反戦派が分離して結成した独立社会民主党に入党し、バイエルンにおける党代表に就任する。革命家というより、ボヘミアンタイプの文筆家であった。

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