第6話 ローザの「ロシア革命論」とレーニンの「帝国主義論」

ローザの「ロシア革命論」

「無制限な出版・集会の自由、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎え縮み、偽りの生活になり、そこには官僚制だけが唯一の活動的な要素として残ることになろう。公共の生活は次第に眠り込み、無限のエネルギーと限りない理想主義を持った数十人の党指導者が指令し、統治し、現実にはその中の十人程度の傑出した首脳たちで指導して、労働者のエリートが指導者たちの演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するために時折会議に召集される、ということになろう。つまり、要するに同族政治なのだ・・独裁には違いないが、しかしプロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家たちの独裁、つまり全くブルジョア的な意味での、ジャコバン支配のような意味での独裁なのである」として、プロレタリアの独裁と党の独裁とは違うと警鐘を鳴らしたのである。プロレタリアの独裁の下での社会主義民主主義はあり得るとしたのである。

ソビエト連邦、スターリンにおけるあの専制独裁を、レーニンにおけるロシア革命の中にその萌芽を見ていたのである。


ボリシェヴィキの農民、農業政策についても制憲議会の解散についても、社会主義民主主義の問題についても、

「ロシアで起こっていることはすべて理解できることであって、ドイツのプロレタリアートの沈滞とドイツ帝国によるロシア占領が出発点と終点をなす因果の鎖に不可避的につながるものだ」として、やむを得ない措置だとして認めながらも、社会主義の原則からの批判を加えて、この〈やむを得ざる措置〉が国際的に規範化されることを防ごうとしたのである。この国際的規範化は後の第三インターに見られることになる


レーニンの帝国主義論

1917年に初版が刊行された。正式名称は『資本主義の最高の段階としての帝国主義(平易な概説)』

自由競争段階にあった資本主義において生産の集積がおこり、独占体が生まれる。銀行独占体と産業独占体が融合・癒着した金融資本が成立する。金融資本は経済だけでなく政治や社会の隅々を支配する金融寡頭制を敷く。巨大な生産力を獲得した独占体に対し、国内大衆は貧困な状態に置かれたままになり「過剰な資本」は国外へ輸出される。被支配地域を巡る世界の分割が行われる。資本主義の発展は各国ごとに不均等であり、新興の独占資本主義国が旧来の独占資本主義国の利権を打ち破るために再分割の闘争を行う。したがって、再分割をめぐる帝国主義戦争は必然である。

帝国主義戦争は列強の「政策」の一つなどではなく、資本主義の最高段階における必然の現象で、絶対に不可避であるという主張を本書で展開した。また、こうした戦争支持派がなぜ労働運動や社会主義運動のなかに生まれるのかという解明の必要性にも迫られ、「超過利潤による労働貴族の培養」という概念に達した。資本輸出によってもたらされた超過利潤(植民地からの搾取)によって一部の上層労働者層がそのおこぼれに与るとしたのである。


帝国主義の特徴として五つの指標を挙げた。1つ目は生産と資本の集積が独占(体)をうみだすほどになっていること、2つ目は銀行資本と産業資本の融合により金融資本と金融寡頭制が成立していること、3つ目は商品の輸出にかわって資本輸出が重要な意義を得ていること、4つ目は世界を分割する資本家の国際的独占体が形成され、世界の経済的分割が形成されつつあること、5つ目は資本主義列強による地球の領土的分割が完了していること。この五つの指標の状態が生み出されている資本主義の発展の最高段階こそが帝国主義であると述べている。


*人物

ニコライ2世(49歳1868年 - 1918年)

ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月 - 1917年3月15日)。

両親の勧めで皇太子ニコライは1890年10月から翌年8月にかけて世界各地を旅行することになった。旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東だった。そんな関係で日本にも立ち寄っている。蝶々夫人のオペラを見ていたニコライは、最初の寄港地を長崎にした。長崎が特に気に入り、お忍びで長崎の町を探索した。長崎の印象について日記の中で「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ。」という感想を書いている。

そのように、気に入った日本であったが、大津にて、警察官津田三蔵巡査にてサーベルで頭部に負傷を受ける事件に遭った(大津事件)。その後の日露戦争と、少なからぬ日本とは縁があるのである。2月革命で臨時政府によって拘束され、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流された。レーニンは元皇帝が白軍(反革命政府)により奪回されることを恐れ、1918年7月17日元皇帝一家7人の銃殺を命じた。皇后の血筋に当たる英国への亡命も考えられたが、当時労働運動が盛んだった情勢から英国政府は賛成しなかったと言われている。ニコライ2世の容貌は、従兄であるイギリス国王ジョージ5世とは、入れ替わっても親族さえ気付かないほど容貌がよく似ていたとされる。


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