第5話 1907年の革命・10月革命

b) 10月革命

ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後、ボリシェヴィキへの支持が急速に高まった。8月末から9月にかけ、ペテルブルクとモスクワのソヴィエトではボリシェヴィキ中心の執行部が選出され、ソヴィエトの権力を握った。これを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。中央委員会は10月10日に武装蜂起の方針を決定した。

ペテルブルク・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会(委員長トロツキー*)を設置した。これは、元々は首都の防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキを中心とし、社会革命党左派が加わる形となった。前後して軍の各部隊が次々にペテルブルク・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの指示に従うことを決めた。今や、ボルシェビキは軍事的な権力を握ったのである。


10月24日、ケレンスキー臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。首都の要所を制圧し、10月25日に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペテルブルク労兵ソヴィエトに握られた」と宣言した。臨時政府の閣僚が残る冬宮は26日未明に占領され、ケレンスキーはブスコフに逃れ、この地の騎兵部隊を率いて首都奪還を試みたが失敗し、結局フランスへ亡命した。

モスクワでも、10月25日にソヴィエト政府を支持する軍事革命委員会が設立され、臨時政府側の反抗を抑えた。ここにソヴィエト権力が樹立され、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。

ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として、新しい政府に参加した(後に離脱)。


(4) 憲法制定議会

二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきたため、この問題をどうするかが党の問題として残った。議会開催の為の選挙を行わなければならないが、ペテルブルクやモスクワでのソヴィエトでは多数を形成したとはいえ、全国的な選挙となると違った結果が予想された。レーニンは延期を主張したが、いまそれをすると大衆の支持を失うという意見が多数を占め、憲法制定議会の選挙を実施することを決めた。選挙では社会革命党が得票率40パーセントで410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった。

レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求するものだった。一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、十月革命を否定する姿勢を示した。

翌年1月5日に開かれた憲法制定議会は社会革命党が主導するところとなり、ボリシェヴィキが提出した決議案を否決した。翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させた。これによって、ソヴィエトは(社会革命党左派は含んだが後に、レーニンの独裁を批判し抜ける)一党独裁の権力となったのである。

この憲法制定会議を巡っては、次に述べるドイツ革命でも、権力を握る過程における民主主義か、独裁かの悩ましい問題として提起されるのである。


「兵士には即時平和を*」「農民には土地を*」のスローガンを掲げたレーニンは勝利し、プロレタリアートによる独裁の社会主義政権が樹立されたのであるが、当然、帝国主義列強の干渉が予想され、国内に於いてはまだ反革命勢力の抵抗があり、戦争に疲弊した国民の生活と、経済がある。何より即時講話が実現されなければならない。革命政権の前途の暗雲を払うことは容易ではないことが予想されたのである。

国家は権力を握っただけでは社会主義はできない。建設されなければならない。それも歴史上初めての社会主義の実現に於いてである。国民の意識を変え、あらゆる今までの公機関を造り変えねばならない。経済の仕組みも新たなる実験である。抑圧された人民を搾取のない世界に解放するという高い理想、考えても、気が遠くなる大事業であった。


万国の労働者よ、団結せよ!レーニンもトロツキーも、遅れたロシアで、到底一国で成し遂げられることではなく、全世界のプロレタリアートに期待した。特に、同じような戦争の惨禍にあるドイツのプロレタリアートの革命に期待した。ドイツの革命はフランスにそしてヨーロッパに波及し、ロシアの孤立はなくなると期待したのである。


*「農民には土地を」これはナロードニキの流れを汲む社会革命党のスローガンであった。レーニンはこれを「拝借した」と語っている。


*「兵士には即時平和を」長年にわたる戦争に兵士は厭戦気分にあった。相次ぐ脱走は部隊ごとであったり、50万100万と半端な数ではなかった。後方の生産、物資の補給が追いつかず、軍靴すら満足に補給されず兵士は裸足で歩いたという。


*人物・年齢は1917年革命当時の年齢

レーニン(47歳1870年 – 1924年)

父親は物理学者で教育者、功績を認められて貴族に列せられるも、子供には奴隷や貧困といった階級問題を息子達に伝える努力を惜しまなかった。レーニンを含む兄弟姉妹5人全員が革命家の道を選んでいる。ペテルブルク大学理学部に在籍していた兄のアレクサンドル・ウリヤノフが、ロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に加わった容疑で絞首刑になっている。レーニンはカザン大学で学生運動に参加し、大学から退学処分を受けた。3年後、法律学に関する理論を兄の母校サンクトペテルブルク大学の論文審査に提出、高い評価を受けて入学を許可され、第一法学士の称号を与えられる。サンクトペテルブルク大学時代にもかつての専攻であった言語に関する成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得した。『帝国主義論』や『国家と革命』などの著作でマルクス主義を発展させた独自の理論を構築した。


レフ・トロツキー(38歳1879年 - 1940年)

ウクライナ生まれ。両親はユダヤ系の富農であった。国費でドイツの学校で学ぶ。流刑と投獄の時期に徐々にマルクス主義者となっていく。社会民主労働党が分裂すると、トロツキーは最初メンシェヴィキに所属するが、しかし直ぐに離れどちらにも属さなかった。1905年の革命では12月に逮捕され、シベリアへの終身流刑を宣告されたが、護送中に脱走してウィーンへと亡命、その後スイス、フランス、ニューヨークと居を移す。1917年、ロシアで2月革命が起るとロシアへ帰国。7月にはボリシェヴィキに入党し、9月にペテルブルク・ソビエト議長に就任。10月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導し、印刷所、郵便局、発電所、銀行などの要所を制圧するなどしてボリシェヴィキの権力奪取に貢献した。

外務人民委員(外相に相当)に就任。ドイツとの講和交渉を担当した。レーニンの即時講話路線には反対で、「戦争もなく、講和もなく、ドイツ労働者の蜂起を待つ」との引き伸ばしの姿勢をとった。しかしドイツ政府が強硬姿勢を見せ、軍をロシア領内に侵攻させると、レーニンに賛成し講和に踏み切った。

大衆の人気も高かったといわれるトロツキーは、赤軍 (反革命側は白軍)を組織し、内戦において赤軍を指揮し、見事な手腕を発揮した。レーニンの亡くなったあと、一国社会主義か、世界革命かの理論で党書記長のスターリンと対立した。書記長という人事権を持つスターリンに権力闘争で破れたとされる。しかしドイツ革命が失敗して、世界革命が遠のいたことが、スターリンの一国社会主義が現実味を持ったのがスターリンの党内優位につながったと考えるべきであろう。1927年には政府・党の全役職を解任され、1929年には国外追放される。海外にても共産主義の理論執筆活動をしたが、1940年8月21日メキシコの隠れ家で殺害された。


*正確にはサンクトペテルブルグは帝政時代の首都であった呼び名、ペトログラードは第一次大戦以降の呼び名である。ソ連邦ではレニングラード、ソ連崩壊後は元の名前に戻った。

名前の変遷にも歴史がある。

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