第4話 1917年の革命・2月革命
(3) 1917年の革命
当時、ロシアは第1次世界大戦の渦中にあった。その年に起こった2度の革命をいう。
a)2月革命
2月23日、ペテルブルクで国際婦人デーにあわせて、女性労働者がストライキに入り、デモを行ったところから始まった。食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、国会には停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。2月27日、労働者や兵士はメンシェヴィキの呼びかけに応じて労兵協議会ペテルブルク・ソヴィエトを結成した。メンシェヴィキから議長が選ばれた。一方、同じ日にドゥーマの議員は臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。ニコライ2世は退位へと追い込まれ、ロマノフ朝はここに崩壊した。
3月1日、ペテルブルク・ソヴィエトはペトルブルク守備軍に対して「命令第一号」を出した。「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示し、二重権力状態になった。ドゥーマ臨時委員会は3月2日、カデットのリヴォフを首相とする臨時政府を設立した。ペテルブルク・ソヴィエトを主導するメンシェヴィキは、ロシアが当面する革命はブルジョワ革命であり、権力はブルジョワジーが握るべきであるという認識から、臨時政府を支持する方針を示した。
臨時政府は3月6日、同盟国(フランスやイギリス)との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した。ペトルブルク・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と題して発表した声明は、「平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」とした戦争の継続に反対するものであり、臨時政府の姿勢との食い違いをみせた。
ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて、ソヴィエトに歩み寄った「戦争目的についての声明」(3.27声明)を発表したが、ミリュコフ外相は4月18日にこの声明を同盟国に発送したが、声明内容を否定しかねない「ミリュコフ覚書」を付した。これは労働者や兵士の激しい抗議デモ(四月危機)を呼び起こした。外相と陸海相は辞任を余儀なくされ、ペテルブルク・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。5月5日に成立した第一次連立政府は、もともと法相として入閣していたケレンスキー*のほかに、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった。
一方、ボリシェヴィキは弾圧によって弱体化していたため、二月革命の過程で指導力を発揮することはできず、ソヴィエトにおいても少数派にとどまった。臨時政府やソヴィエトに対する姿勢に関しても革命当初は方針を明確に定めることができなかった。
3月12日に中央委員のカーメネフとスターリンが流刑地からペテルブルクに帰還すると、ボリシェヴィキの政策は臨時政府に対する条件付き支持・戦争継続の容認へと変化した。これに対し、戦争の継続に反対するレーニンは、4月3日に亡命地から帰国し、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」と題した4月テーゼを発表して政策転換を訴えた。その内容は、臨時政府をブルジョワ政府と見なし、いっさい支持しないこと、即時平和と、『全権力のソヴィエトへの移行』を宣言するものであった。これは、党の公式見解となった。
第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの圧力に応じ、前線において大攻勢を仕掛け、勝利による講話を考えた。将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。しかし6月18日に始まった攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。
攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。7月3日、ペテルブルクの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定した。他の部隊や工場労働者も呼応し、その日のうちに武装デモが始まった(七月事件)。しかしソヴィエトの中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否した。デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。そしてこの事件はボルシェビキによるものとされた(ボルシェビキにはまだそんな力はなかったのだが・・)。
レーニンは、この7月事件により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行したと評価し、四月テーゼの『全権力をソヴィエトへ』という平和的移行のスローガンを放棄した(これは武装蜂起による権力奪取を意味するものであった)。
第一次連立内閣は7月8日にリヴォフ首相が辞任したことで終わり、ケレンスキーを首相とする第二次連立内閣が成立した。攻勢の失敗により保守派の支持を失い、7月事件後の弾圧により革命派からも支持されなくなったため、臨時政府の支持基盤はきわめて弱いものとなっていた。7月18日に軍の最高総司令官に任命されたコルニーロフは、軍における兵士ソヴィエトの権利の制限を要求し、保守派を巻き込んで反乱を起こした(コルニーロフの反乱)。カデットの閣僚はコルニーロフに辞任し連帯をしめした。軍の各方面軍の総司令官もコルニーロフを支持した。ケレンスキーはソヴィエトに対して政府への無条件支持を要請した。弾圧を受けてきたボリシェヴィキもこれに呼応した。ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、将校の命令に従わなくなった。反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、反乱は失敗に終わった。
*人物
アレクサンドル・ケレンスキー(36歳1881年 - 1970年)
2月革命後の臨時政府首相を務めた(社会革命党)。父フョードルはシンビルスク古典中高等学校の校長であったが、その生徒の中にウラジーミル・ウリヤーノフ(後のレーニン)がいたことは歴史上の皮肉と言っていいであろうか。ペテルブルク大学を卒業後、弁護士として働き、1912年に社会革命党議員となった。2月革命が開始されると、ペテルブルク・ソヴィエトの副議長に任命された。その後臨時政府が組織されると、ソヴィエトを代表して入閣し法相に就任した。この時、兵士と労働者の人気はソヴィエト出身のケレンスキーに集まっており、臨時政府の実権も彼が握っていた。5月には軍事大臣に就任し、市民改革および第一次世界大戦の戦争継続を主張した。10月革命では、ペトログラードの冬宮を脱出、プスコフに逃れた彼は、この地の騎兵部隊を率いて再び首都へ帰還しようと試みたが、赤軍との戦闘に敗れ、フランスに亡命し、1970年にニューヨークで死去した。
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