第3話 ロシア革命・1905年『血の日曜日』
(1) ロマノフ王朝
ニコライ2世*のもとにあった当時のロシアは、大土地所有の貴族(ユンカー)、圧倒的多数の農奴、封建的遺制を残す国ではあったが、近代化(ヨーロッパ化)を急いでいた。1890年代に入って急速に資本主義化してきた。フランスとの攻守同盟のもと、フランス資本にたよるものであった。いち早く独占段階に入っていたフランス資本には、ロシアは魅力的な投資先であった。代表的なのは、シベリア鉄道はフランス資本によって建設された。外国資本による産業化は、高度な企業集中をみせ、労働者は140万人から280万に倍増した。これらの労働者は、首都ペテルブルグ(当時の首都)やモスクワの都市部に集中した。資本主義が進んだ都市と農奴制から抜けられない農村という奇妙な対比をみせていたのである。
資本的にはフランスの半植民であると言っても過言でない状態で、片一方では自国より弱いところには、ツアー専制の帝国的野心を持っていたのである。これが冒頭にローザ・ルクセンブルクが書い「ロシアの中国への野心」である。バルカンではスラブ民族の盟主を自負し、黒海艦隊の海峡通過を巡ってホスボラス海峡に並々ならぬ野心を持っていた。フランスとの攻守同盟は、ドイツ帝国の急伸を恐れる両国の利害が一致したものであった。
(2) 1905年の革命
ロシア革命の第1幕は、1905年1月9日の『血の日曜日』から始まった。皇帝の住む冬宮に向かって民衆は行進した。請願行進はガポン神父に主導され穏健なものであった。請願の内容は、労働者の法的保護、当時日本に対し完全に劣勢となっていた日露戦争の中止、憲法の制定等、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。当時のロシア民衆は、ロシア正教会の守護者でもある皇帝に崇拝の観念をもっていた。このため民衆は、皇帝ニコライ2世への直訴によって、情勢が改善されると信じていたのである。行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は11万人、行進参加者は6万人に達した。
その行進に向かって皇帝の軍隊は発泡し、雪の上に流れた血は1000名を越したという。
事件はモスクワに伝わり、市内各所で抗議の暴動が発生した。この事件で、民衆の皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、ロシアの民衆の抵抗運動を始めるきっかけとなった。都市では10月8日の鉄道労働者のストライキは、あっという間にペテルブルクとモスクワのゼネラル・ストライキに発展した。短期間だが200を超える工場でストライキを組織する労働者協議会ペテルブルク・ソビエト*(大半の参加者がメンシェヴィキ)が結成されることになった。
*労兵協議会:ロシアではソビエト、ドイツではレーテと言った。例えば工場や兵舎で1000名を単位として代議員を選び、大会で中央執行委員を選ぶ。3ヶ月単位や問題がある度に選び直される(女性にも選挙権はあった)リコールも可能な直接民主主義であった。
農村では小作料や土地の分配をめぐって、騒乱事件が多発した。ロシアの急進的な政党は農村の騒乱期に急速に浸透して行った。
政府の反応は、非常に早かった。皇帝は十月詔書を出して事態の鎮静を図った。一定の民主化を約束し、国会(ドゥーマ)選挙への幅広い参加。すなわち、制限付きながら普通選挙を約束した。ツァーリの専制政治のみを経験してきたロシア国民は期待した。十月詔書発布により、勝利を得たと考えた自由主義者たちは、帝政に対する矛先を収めた。穏健派は十月党を結成し、社会革命党、ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ及び、メンシェヴィキの両派*)は合法的活動の余地を得た。
*注釈:ボリシェヴィキは多数派を意味し、メンシェヴィキは少数派を意味するが、最初はメンシェヴィキが多数派であった。党の組織論、大衆に開かれた党か、革命的に武装された前衛党(レーニン)かで結党まもなく分裂した。
しかるに、自らの専制権力に枠をはめられたニコライ2世は、事態を屈辱的なものと感じ、国会に対して幾度となく拒否権を発動するなどし、選挙法の改正を通じて国会の形骸化を目論んだ。日露戦争終了後、ツァーリ政府は退勢を挽回し、12月に起きたモスクワ蜂起を武力で鎮圧し、急進派を弾圧した。自由主義者を中心にした穏健派は選挙に備えた。1906年、第一国会では自由主義派の立憲民主党(カデット)が第一党となった。ニコライ2世の拒否権行使のため、国会は権限が形骸化し、言論の自由は制限され、国民の期待は裏切られた。
ここで、左派政党に触れておく。
社会革命党:ナロードニキの流れを組む革命政党として、1901年に結成。生い立ちから農民に強い影響力を持った。1917年の革命では左派はボルシェビキとともに革命の一端を担う。
ロシア社会民主労働党:1898年に創立されたロシアで最初のマルクス主義政党。党の組織論をめぐって、ボリシェヴィキ(レーニン派)とメンシェヴィキに分裂した。第一国会の選挙の際、ボリシェヴィキはまだ革命期が続いていると考えてボイコット戦術を取り、メンシェヴィキは選挙に参加した。第二国会ではボリシェヴィキもボイコット戦術を放棄し、選挙に参加した。結果、社会民主労働党は518議席中65議席を得た。ツァーリ政府の首相ストルイピンは第二国会を解散し、社会民主労働党の国会議員を逮捕し、社会主義者を徹底して弾圧した。レーニンらは外国に逃れ、残ったボルシェビキらは地下活動を余儀なくされた。これにより第一革命は終わり、ロシアは反動期に入った。両派の統一は幾度か図られたが、両派の革命理論の相克は乗り越えられないまま、1917年の革命を迎えるのであった。
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