第2話 第一次世界大戦

第一次世界大戦とはどんな戦争であったのだろうか?

1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機になったことはよく知られるところである。バルカン半島はスラブ民族、ゲルマン民族、アラブ民族が混在し、そこに列強の利害が交錯し、ヨーロッパの火薬庫と言われていた。1914年7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告することによって、第一次世界大戦の幕は切って下ろされた。

この戦争は最終的に大英帝国と、これに追いつく勢いで独占資本主義段階に入ったドイツ帝国との戦争であった。英・仏・露の三国協商と独・墺・伊の三国同盟と周辺諸国を巻き込んだ戦争となった。イタリアは途中で同盟を抜け、最後協商側についた。オスマン・トルコはドイツ側について戦った。ドイツ政府は8月2日にロシアに対して宣戦布告し、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。バルカン半島でもオーストリアを中心に戦われたが、主な戦場はフランスとの西部戦線、ロシアとの東部戦線であった。


多くの人々は戦争が早期に(「クリスマスまでには」)終結すると楽観していた。しかし今までの戦争とは様相を一変させた戦争となった。機関銃の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した。この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。

四年余に渡り、戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定された戦いであった。


特に西部戦線での塹壕戦は悲惨を極めた。フランドル海岸からスイス国境まで戦線が構築され、前線の両側では塹壕が掘り進められた。砲弾で掘り起こされ、死臭が立ち込める戦場は秋の長雨でたちまち泥沼になった。塹壕も膝まで泥沼が溜まり、ネズミが死体をあさって横行し、シラミまみれの兵士を苦しめた。戦場を視察した英国の一将校は「われわれは本当にあんなところで兵士を戦わせていたのか」と泣き出したという。

両軍とも大規模な攻勢を何回か(小規模は数しれず)行っている。それらの攻勢計画では、まず大量の砲弾をもって砲撃が行われ、その後に歩兵による突撃が続く。しかし巧妙に構築された塹壕線に配置された側の防機関銃や有刺鉄線などによって防御側の優勢が確立しており、攻撃側には大量の犠牲者が続出し、攻勢は失敗することが多かった。この結果として攻勢による前線位置の変化はほとんど生じなかった(30キロ~50キロの範囲であった)。このような行き詰まりを回避しようと、毒ガス・戦車・飛行機などの多くの新兵器が導入されたが、これらの兵器も決定的な優位を生じさせることはできなかった。1918年にいたるとドイツ軍の春期大攻勢の失敗や、アメリカ軍の参戦などによる連合国軍の戦力的優位により、ドイツ軍司令部が敗北を認識し、1918年11月にドイツ政府が休戦協定を受諾するに至った。


西部戦線が塹壕線で膠着した一方で、東部戦線の戦況は流動的なままであった。緒戦でロシア軍はドイツ領東プロイセンへ進攻したが、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。この敗北以後、ロシア軍が積極的な攻勢に出ることは少なくなり、軍の近代化の面で一歩先を行くドイツ軍に対し、次第に圧迫されていく。ドイツ軍は東部戦線に早く決着をつけ、兵を西部戦線に送りたかった。ロシア側では脱走兵が相次ぐ始末で、経済疲弊などで国民の不満は高まり、1917年、ついにロシア革命が起こった。


アメリカの参戦、アメリカは中立の方針であった。圧倒的に優位な英国海軍によってドイツは海上封鎖され、物資の輸入に支障をきたしていた。そこでUボート(潜水艦)による無差別攻撃を行った。アメリカ人が乗った客船が何回も被害にあったこと、国民が英国に同情的であったこともあって、開戦に踏み切ったのである。

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