夏の風と水飛沫の

もきの

夏の風と水飛沫の

 □


 うだるような暑さ。


 空調設備のない教室は、窓を全開にしていてもこもったような熱を持ち、ただひたすらにじっと座り続けている俺のやる気と体力を奪っていく。


 今は、ほとんど興味もない数学の授業中。


 どこか近くの木に止まっているらしい蝉の鳴き声が、全開にされた窓から聴こえてくる。


 ああ、夏だなあ、と思う。今は夏だから当たり前なのだけれど。


 今年は何をしよう。

 毎年、決まった友人たちと花火をしたり夏祭りに行ったりはするのだけれど、去年と同じことをするのもなんだかもったいない気がする。

 今年はなにか違うことをしたいなあ、なんてことをぼーっと考えていたら、突然、名前を呼ばれた。


「宮霧くん、前に来てこの問題を解いてみなさい」


 額に汗を浮かべた数学教師からの指名だった。


 考え事をしていた俺は、慌てて今の状況を飲み込もうと黒板に書かれている内容を眺めた。が、ぼーっとしていたせいかうまく頭が働かず、内容をすぐに理解することは出来なかった。


 ただ、指名をされた以上、前に出て問題を解かなければならない。出来る限り頭を働かせて、黒板に書かれている内容と照らし合わせながら自分のノートに問題を解いていた。

 しかし、どうしても解けなかった。

 考え事をしていた時に、数学教師が話していたことがどうやら重要な部分だったらしい。


 どうしたものかと自分のノートとにらめっこをしていると、トントン、と左肩を二回、軽く叩かれた。

 何気なく、「叩かれた」と思って左を見ると、隣の席の崎島さんが俺を見ていた。


 ああ、かわいいなあ、と思った。

 一瞬、時が止まったように感じた。蝉の鳴き声だけが、世界に響いている。


 少し高めの位置から垂れているポニーテール、控えめのまつ毛、小さめな鼻と口、柔らかそうなほっぺた……。


 もう一度、トントンと、今度は音がした。

 その音の方を見ると、崎島さんが自分のペンで自分のノートを指していた。そのペンの先を見ると、俺が悩んでいた問題の解答が書かれていた。


 「いいの?」と思いながら崎島さんの顔をもう一度見ると、彼女は「いいよ」と言わんばかりに微笑みながら頷いていた。


 崎島さんに、ありがとう、と小声で言ってから解答を自分のノートに写させてもらい、それを手に黒板の前に立った。そして、崎島さんに教えてもらった内容を白いチョークで黒板に書いていく。


「うん、正解です」


 解答を書き終わった俺に、数学教師はそう言った。


 よかった。ホッとしながら自分の席に戻ると、隣の席で崎島さんが自慢げな顔をして待っていた。


「ありがとね」


 席に座りながら、崎島さんに小声でそう言うと、彼女は「ううん」と首を横に振り、さっき写させてもらったノートの答えに赤ペンで大きなマルをつけた。


 とりあえず、無事に窮地を乗り越えられた。

 溜め息を一つつくと、蝉の鳴き声がより一層増した気がした。


 それから俺は、さっき考え事をしている間に進んでいた黒板の内容を、急いで書き写し始めた。


 □


「宮霧くん、またね」


 放課後、帰り支度をしていると、崎島さんが声をかけてきた。

 彼女は既に支度を済ませて、自分の席を離れようとしていた。


「ん、またね」


 そう答えると、崎島さんは軽く頷いて、ポニーテールを揺らしながら去っていった。


 俺も帰ろう。

 そう思って、さっさと支度を済ませて、教室を出た。


 昇降口に着いて、学校指定の上履きを履き替えようと自分の下駄箱を開けると、自分のスニーカーと、白い小さな封筒が一つ入っていることに気が付いた。


 なんだろう、と思って手にとってから、はたと気付く。

 もしかして、下駄箱に手紙ということは……。


 いやまて、この俺が?

 そんなはずはない。きっと、いたずらか何かの類だろう。


 周りを見回してみると、幸いなことに人はいなかった。


 よし、今がチャンスだ。

 そう思って封筒を開けようとした時、広い昇降口に強い風が吹き抜けた。

 封筒が飛ばされそうになるのを、慌てて握りしめる。


 風が収まってから便箋を取り出すと、そこには短い文章だけが、綺麗な字で書かれていた。


「今日の夜九時、学校のプールで待っています」


 名前は書いていない。が、字は明らかに女の子の字だ。

 繊細な、几帳面そうな整った字。


 ふと崎島さんの顔が思い浮かんだが、たまに見せてもらっているノートの字とは、違っていた。


 誰の字なんだろうか。

 俺を呼び出す目的は……。

 告白?いや、自惚れるな。いたずらかもしれない。


 小さな便箋をしばらく眺めていると、廊下の奥の方から何人かの学生がやってくる声がして、慌てて便箋を封筒に入れ、制服のポケットに滑り込ませた。

 そして、すぐに外履きに履き替え、昇降口を出た。


 その後は、なぜか早歩きで、そわそわした気持ちで家路についた。


 □


 夕ご飯を済ませ、自分の部屋に戻る。


 学校から帰って今の今まで、ずっと下駄箱に入っていた封筒のことが頭から離れなかった。


 今は机の上に置いてある白い封筒を、また手に取って、中の便箋を取り出す。

 明らかに、見たことがない字。

 学校に、夜九時……。


 ふと時計を見ると、今は八時を少し過ぎた頃だった。


 行くべきなんだろうか。


 部屋の中を落ち着かずにうろうろしながら考えていると、窓がガタガタと鳴り始めた。

 一瞬、地震かと思ったが、ただの風だった。

 そういえば、なんだか今日は風が強い。


 よし、行こう。


 なぜだか、そんな気分になっていた。

 風が吹いたことで意識がそれて、多少冷静になったのだろう。


 いたずらにしろ告白にしろ、行ってみる価値はあると思う。

 いたずらなら走って逃げてくればいいし、告白なら、まあ、アレだ。


 コンビニに行ってくる、と母さんに伝え、家を出る。


 風が強かった割に、外はあまり涼しくなかった。


 □


 学校に着いた。

 時刻は夜八時半過ぎ。


 少し早かったななんて思いながら、いつも入っていく校門を通り過ぎる。

 門から入ると、警備システムが作動して警報が鳴ってしまうので、ここからは入れない。


 学校の敷地を回り込み、少し高めのフェンスが立ち並んでいるところをよじ登り、学校の敷地に入った。

 ここからであれば、警備システムは作動しない。

 しかも、人通りの少ない通りだから、気をつければ見つかることもほとんどない。


 少し前に、クラスのみんなで夜の学校に忍び込んだのを思い出していた。

 夜の学校は、なんだかおどろおどろしい雰囲気がある。

 まったく別世界にはいりこんでしまったかのような錯覚。


 だけど、それはとても好きな雰囲気だった。


 校庭を回り込んで、プールの入口に着いた。

 まだ少し時間が早いなと思って、入口の階段に腰を下ろす。


 すると、また強い風が吹いた。

 汗ばむ体と服の間に風が通り抜けて、気持ちがいい。


「あ、宮霧くん?」


 不意に、後ろから声をかけられた。女の子の声だった。

 思わず立ち上がって後ろを振り向くと、入口の金網の向こう側に人がいた。

 だけど、暗くて顔はよく見えない。


「誰?」


 そう尋ねると、その人は少し黙ってしまった。

 困ってしまったような、そんな雰囲気。


「とりあえず、こっちに来てくれる?ここは暗いから」


 促されて、階段を登り、金網を開ける。

 そのままプールサイドに向かうと、そばにある街灯がプール全体を淡く照らしていて、さっき声をかけてきた人の姿が見えた。


 長い髪を垂らし、白いワンピースを着た、細身の女の子。

 顔は、全く見たことがない。


 だけど、彼女の美しさに、一瞬、時間が止まったように感じた。

 揺れ動いているのは、プールに張られた水に映った街灯の明かりだけ。


「はじめまして宮霧くん。私、恵美って言います」


「は、はじめまして……」


 メグミさん。一体どこの誰なんだろう。


「ごめんね、突然呼び出したりして」


 そうだ、俺は呼び出されてここに来たんだった。

 今の状況を飲み込むので精一杯で、目的をすっかり忘れていた。


「いつも晴香と仲良くしてくれてるでしょ?」


「ハルカって、崎島さんのこと?」


「そうそう。私、晴香の友達なんだ」


 崎島さんの友達。そういえば、崎島さんから友達の話なんて聞いたこともなかった。


「それで、今日は宮霧くんにお願いがあってここに呼んだんだよ」


「お願い?」


 そう聞くと、彼女は頷いて、口をつぐんだ。

 しばらく、静かな時間が流れる。


 プールの真っ黒な水は、相変わらず街灯の明かりを映してゆらゆらと揺れていた。


 また、強い風が吹いた。

 水に映っていた街灯の明かりは、小さな波によって千切りのように細くなる。


「あのね、今、宮霧くんが想ってる晴香への気持ち、そのまま晴香に伝えてほしいんだ。そうすれば、私の願いは叶えられるから」


 強い風が吹く中、恵美さんの声は風の中を通り抜けてくるようにハッキリと聞こえてきた。

 崎島さんへの想いを伝える、ということは、告白?

 それと、願いってなんだろうか。


「願いって、どういうこと?」


「単純に、私がそうして欲しいっていうこと。深い意味はないよ」


 恵美さんはそう言って、柔らかく微笑んだ。


「でも、伝えるって言ったって、無理だよ、そんな急に」


 崎島さんのことは好きだけど、大好きだけど、伝えて、俺の勘違いで、嫌われたりでもしたら……。


「大丈夫だよ、私、晴香の友達だよ?晴香のことならなんでも知ってるんだから。晴香ならいい返事してくれるはずだよ」


 それってつまり……。


「だとしても……」


 なかなか勇気を出せずにいると、恵美さんは小さく溜め息をついた。


「まあ、そんな急には無理だよね……でも、今日晴香もここに呼んでるんだよね」


 もうすぐくると思うよ、と、恵美さんは少しいたずらっぽい笑顔でそう言った。

 そんなバカな。

 無理だよ、急だよ。

 そう言っても、恵美さんは微笑むだけだった。


 また、強い風が吹く。


「あれ、宮霧くん?」


 不意に、プールの入口から声をかけられた。

 聞き覚えのある声。


 入口を振り返ると、そこには崎島さんの姿があった。


「やっぱり宮霧くんだ」


 崎島さんは金網を開け、プールサイドに入ってきた。


「ねえ、ここに、同じ年くらいの女の子いなかった?」


 近くに来た彼女の姿が、街灯の明かりで照らし出される。

 いつもはポニーテールにしている髪を、今は下ろしていた。そして、ほとんど見たことがない私服姿に、少しドキッとしてしまう。


「お、女の子って、恵美さんのこと?」


「もしかして、恵美を見たの!?」


 崎島さんは少し慌てるように、そう聞いてきた。


「見たも何も、ほら」


 そう言ってさっきまで恵美さんと話をしていた方を振り向くと、そこには何の姿も無くなっていた。

 わけがわからず、恵美さんが居たところを眺めていると、崎島さんが顔を覗き込んできた。


「もしかして、そこに恵美が居るの?」


「ううん、さっきまで居たんだけど……」


「そっか、そうなんだ」


 崎島さんはなぜか、少し嬉しそうな声でそう言った。


「もしかして、恵美から何か聞いた?」


「えっと聞いたというか、お願いされたというか……」


「お願い?」


 崎島さんに聞かれて、急にさっきの”お願い”を思い出した。

 俺の想いを、崎島さんに伝える。恵美さんの、願い。

 ただでさえ強く脈打っている心臓が、さらに強く跳ね上がった気がした。


「とりあえずさ、暑いし、足だけでもプールに浸からない?」


 少しでも考える時間を、勇気を出す時間を稼ぎたかった。


 崎島さんと二人で、プールサイドに腰掛け、サンダルを脱いで足だけをプールに入れた。


 プールはちょうどこの時期授業をしているおかげで綺麗だが、水は入れたてではないから少しぬるかった。


「ちょっとぬるいね」


 崎島さんは足を軽くばたつかせて、遊んでいた。

 その足の綺麗さと、垂れる水の美しさに、見とれてしまう。


「でも気持ちいいよ」


 俺も水の中で足を揺らした。

 うん、と崎島さんは頷いた。


「そういえばさ、崎島さんはどうして恵美さんがここに居るって思ったの?」


 崎島さんはここに来た時、真っ先に恵美さんが居るのかを聞いてきた。


「それは、この手紙が下駄箱に入ってたから」


 そう言って崎島さんがポケットから取り出したのは、俺の下駄箱に入っていたものと同じ白い封筒だった。


「あ、それ、俺の下駄箱にも入ってたよ」


 俺は自分の下駄箱に入っていた封筒を、ポケットから取り出した。


「宮霧くんのところにも入ってたんだ。実はね、この手紙の字が、恵美の字と同じだったから、もしかしたら居るかもって思って」


 字だけでわかるということは、それだけ仲がいいということだろう。


 勝手に納得して適当な返事をしたら、それっきり二人の間には沈黙が生まれてしまった。


 足の動きに合わせて、水が揺れる。それに連なって、水面に映る街灯の明かりもうねったり千切れたりしていく。

 そんな水の動きを眺めているせいで、会話は途切れてしまう。

 辺りから、音が消えてしまったようだった。


「ねえ、宮霧くんてさ」


 プールサイドの静寂を破ったのは、崎島さんの声だった。


「うん」


「好きな人、居たりするの?」


 突然のことに崎島さんの顔を見ると、彼女は水面を見つめたままだった。


 俺も水面を見つめる。小さな波の音。うねる街灯の明かり。

 俺は、素直に答えることにした。


「いるよ」


 その瞬間、崎島さんの動きが止まった。


「そう、なんだ」


 彼女の声は、明らかに落ち込んでいる声だった。


「ねえ、誰だか、教えてよ。ここだけの秘密」


 崎島さんは少しだけ明るさを取り戻してそう言った。


「うーん……」


 俺は、また考えていた。

 好きな人は、いる。それは、今横に座っている崎島さんだ。

 好きな人がいるか、と聞いてきた本人に、伝えるべきなのか、伝えるならどうやって伝えれば良いのか……。


 さっきの、恵美さんの”願い”のこともある。


 きっと、言ってしまえば良いのだろうが、その勇気が出ない。


 どうしたものかと、水面を指先で撫でていると、また強い風が吹いてきた。


 水面は細かく波立ち、映った街灯の明かりは千切りのように細くバラバラになっている。


 この風が、いいタイミングになってくれたのかもしれない。

 俺の中に、勇気が湧いていた。


「崎島さん」


 俺は、きちんと崎島さんの方を向いて、彼女の名前を呼んだ。


「なに?」


「俺、崎島さんの事が好きなんです」


「え……」


 崎島さんは、信じられないと言った表情で俺を見つめていた。


「同じクラスになった時からかわいいなあと思って気になってて、隣の席になって、色々な話をして……」


 気付けば俺は、崎島さんの好きなところを次々と口にしていた。


「夜の学校に二人でいるなんて考えるだけでも幸せで、でも実際にこうして二人でいるんだから、今にも心臓が飛び出そうなくらい緊張してるし、すごく幸せなんだよ」


 不器用ながらに言い切ると、崎島さんは顔を手で覆って俯いてしまった。


「崎島さん?」


 余計なことを言ってしまっただろうかと彼女の顔を覗きこもうとすると、彼女は片手で水面をはたき、水飛沫を俺に向かってかけた。


「ごめんね、宮霧くん、少し、そっち向いててくれる?」


 崎島さんは消え入りそうな声でそう言った。

 彼女がそう言うなら、仕方がない。しばらく、彼女の言うとおりにそっぽを向いていた。


 しばらくすると、彼女は落ち着いたようで、小さな溜め息をついた。


「ありがとう、もう大丈夫だよ」


 そう言われて、彼女の顔を見ると、少し目の周りが腫れていて、目はさっきよりも輝きを増していた。


「あのね宮霧くん、私も、宮霧くんの事が好きなんだよ」


 なんとなく、恵美さんから聞いていたから予想はしていたけど、実際に言われると、やはりドキッとしてしまう。

 今にも心臓が喉から出てくるんじゃないかと思うほど。


「そっか、じゃあ、両思いなんだね、俺たち」


 彼女は微笑みながら、うん、と言った。


「じゃあ、さ、よかったら、俺と付き合ってくれませんか?」


 きちんと、彼女の目を見てそう伝えた。


「はい、こんな私ですが、よろしくお願いします」


 彼女は今までに見たことがないほどの笑顔で、そう答えてくれた。

 その彼女が最高に可愛かったことは、言うまでもない。


 なんだかとても、清々しい気分だった。

 とても大きな事をやり遂げた後のような、そんな気持ち。


 穏やかな風が、二人の間を通り抜ける。

 夏の夜の風は、冷たくて気持ちが良かった。


 ふう、と小さく溜め息をつくと、横から「バシャッ」という音が聞こえ、顔に水飛沫が飛んできた。


 崎島さんの方を見ると、彼女はいたずらっぽい笑顔をしていた。


「やったな!」


 仕返しに、俺も崎島さんに手で水飛沫を飛ばした。


 キャッ、と小さく声を上げつつも、彼女は水飛沫をかけられる。

 崎島さんはまた水飛沫を俺にかける。俺もやり返す。


 しばらくの間、そんな時間を過ごした。

 それは、他人から見ればくだらない一幕だろうが、俺と崎島さんにとってはかけがえの無い大切な想い出の一幕だった。


 □


「恵美、また来たよ」


 晴香が小さな花束を持って、とあるお墓の前で手を合わせる。

 俺もそれにならって、お墓に向かって手を合わせた。


 それから晴香は、お墓に向かっていろんな事を話し始めた。

 大学を卒業したこと、就職先のこと、家族のこと、俺のこと……。

 恵美さんは、晴香の小学生時代の大事な大事な親友らしい。


 晴香は時に涙を流すこともあって、その度に俺は晴香の背中を擦ってあげた。

 そのくらいしか、出来ることがないのだ。


 俺は今日、初めてこのお墓に来て、石井恵美という人物の生い立ちを知った。


 まだ幼い年の頃、交通事故で亡くなった少女。

 当時は、ニュースも多く流れたそうだ。


 俺は晴香と恵美さんの話を横で聞きながら、あることを思い出していた。

 それは、俺が晴香と付き合うことになったあの夜のこと。


 恵美さんはあの時、俺に”願い”を託した。


「あのね、今、宮霧くんが想ってる晴香への気持ち、そのまま晴香に伝えてほしいんだ。そうすれば、私の願いは叶えられるから」


 今でも忘れはしない。

 俺はこの願いを、叶えられているのだろうか。


 晴香と一緒にいる間、ふと思い出す時があった。


 だから今日、ここに来て、聞いてみようと思ったのだ。例え、返事は来なくとも。


「恵美さん、俺は、あなたの願いを叶えてあげられましたか」


 心の中で、恵美さんに訪ねてみた。


 当然、あの時のように彼女は現れないし、声も聞こえない。


 不意に、風が吹いた。

 肌を軽く撫で上げるかのような、穏やかな風だ。

 とても、気持ちがいい。


 いつの間にか、俺の心の中にあった何かは消え去っていた。


 □

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