第20話 前畑選手は泳いでいた!、の巻

 谷の発着場から急いで帰ってきた中年女性は、未だ開け放されているジャンの格納庫、いや、ジャンの父ピヨール・マルク氏の格納庫シャッターを見て目を輝かせた。

 あの人が、まだ生きている!?

 ラジオから聞こえていたあの特徴的な声は、ボイスチェンジャー越しに聞いたってすぐ分かる。

 あの男が、あの史上最低のクズ男が家に帰ってきたのだ!

 カッセラ・マルクは勢いよく自宅のドアを開けると、今日の昼過ぎに出てきたときとはまた違う空気が家の中に漂っているのを察した。

 ……間違いない。誰かが家の中に入ってきている。けれどその犯人はどこに?

 家中を、ピヨールの名前を叫んで廻ってみても誰も出てこない。着きっぱなしだったラジオは止められていて、しかもテーブルの上には見覚えのない置き手紙が置かれている。

 走り書きで、しかも乱雑な読みにくい文字で、置き手紙にはこう書かれていた。

『行ってきます。帰りは遅くなるからジャンと一緒に先に食べてて』

 さらに冷蔵庫も勝手に開けられているし、床も汚い足跡だらけ。

 まるでドロボウの嵐がやってきた後みたいではないか。

 村の上空を、翼のもげかかった一機のグライダーが飛んでいく。

 さらに今まであんなに細かった村の川と川辺は今ではあんなに太く、濁流で、しかもなんだか得体の知れない生き物だらけで格好の釣り場風になっていた。

 訳が分からん。

 とりあえずカッセラ・マルクはまず自分の旦那がちゃんと生きている事を知ってほっとすると、まず台所に赴き巨大な肉切り包丁を取りだし、例のあの男の名前を叫んで怒りをぶちまけた。

 頭の皮ひん剥いて食ってやる!!

 今日の晩ご飯は鍋にしようと、この日カッセラは強く心に誓ったのだった。




 カスティヨッサ嬢が自信の笑みを浮かべて高台上に座っている前で。

 男たち、いや性別不明の者たちも含む色々な奴らが最後のスパートをかけだした。

 インド人が勢いよく水をしゃかしゃかと掻いて泳ぎだし、ペンギンは濁流の中で深く潜っては勢いを付けて、跳ねて空を飛んでまた潜る、その繰り返しでどんどんとゴールに近づいていく。

 スーはここでもまだ冷静さを保っていた。

 荒れるレースは世界大会でも、この上にある方面大会でもよくある事だ。勝負は、慌てた方の負け。

 迫り来る大小様々な岩のカケラを一つずつ丁寧に避けていき、水の上を流れる冷たくて重い空気を掴んで、他の飛行機チームと差を付けるべくどんどん進んでいく。

 ベスパは相変わらず不調でエンジンから白煙を出している。エンジンの中に異物が入ったか? 原始人は、最後の猛進撃のために景気づけで機体をドンドンと打ち鳴らしていた。

 そこへ再びF―23の猛攻撃。ミサイルやバルカンの弾がライバルたちの背中をかすめる。

 だが執事の役目は、まずお嬢様の純潔を守る事だった。ここではコースをはみ出して飛ぶ者はいない。となると、一番危険なのはこの途中からレースに参加してきた乱入者たちだ。

 怪物たちはなおも参加者の皆を敵視して猛然と牙を剥いている。

 執事の銃弾は的確にこの化け物たちを狙って撃ち抜いていった。

 小豆色の頭巾を被った妙な原住民たちも各々に吹き矢や槍を持って、水面の魚を狙っている。

 ペガサスがいななく!

 ベレロポーンも叫ぶ!

 前畑選手は泳いでいる!



 ジャンのシルフィードも、翼を半分ほど失い最後尾に着きながらなおも空を滑空していた。

「ちっくしょう諦めるか! 諦めて、たまるかァ!!」

『諦めんなよ!』

 崖の向こう側から、またしてもあのうるさい声が聞こえてくる。その声の主が一体誰なのかジャンは分からなかったが、とにかくジャンは、この声がものすごくうっとうしいとは思っていた。

「あのクソマイクっ……うるさい!!!」

『諦めんなよそこで!!』

「分かってる!!!」

『応援してくれてるみんなのこと思ってみろよ!』

「言われなくたってそんなの! うるっさい!!!」

 ジャンのシルフィードが風を掴んだ。川の流れを沿うように、冷たい、重い、川の上を流れる強い風だ。

 まず最初に追い抜いたのは原始人のオスプレイだ。一番重くて、一番遅い、頑丈で壊れない事だけがとりえの奇妙な丸太の空飛ぶヘリ。

「くそっ、翼がもげる!」

 シルフィードがぎしぎしと嫌な音をひびかせ、セミモノコック構造の軽量級の機体が悲鳴を上げる。

 それでもここで立ち止まるわけにはいかないんだ!

「飛べっ! 俺の、俺のシルフィード!!!」

 次にベスパの機体も追い抜いた。

 エンジン不調ですでに高度を失いつつある機体だ。ベスパの機体も頑丈な作りだった。代わりにパワータイプのエンジンを積んでいるが、衝撃や予期しないアクシデントには滅法弱い。

「ちくしょう!!!」

 ベスパがコクピットの中でジャンのシルフィードを振り返る。だがこのスピードは、今この渓谷での流れはジャンの方が有利!

 なんかもう流されているだけみたいなペガサスとベレロポーンの頭上を飛び越え、ペンギンを視界に捕らえた時。

 ついに、ペンギンとスーのグライダーの順位が入れ替わった。

『まだまだ遅いようだね! キミなんか、スーさんの敵じゃないんだよ!』

 余裕たっぷり、と言った様子で前方のスーが中指を立ててくる。

 最低な奴だ! ジャンは、なぜかふふっと笑って同じく中指を立て返した。

 翼のリブがへし折れる音がする。もう操縦系が効かない。

 その時、突然上空か降ってきた弾丸と共に、謎の戦闘機がジャンとスーの間に割り込んだ。

「こ、これはっ!?」

『何人たりとも、お嬢様に指一本触れる事は許されん!』

「さっきの執事さんの戦闘機!」

 ジェットエンジンの煙い乱流がジャンとスーのグライダーの翼を乱す。

『何としてもだ!!』

「!?」

 と、突然戦闘機が視界から消え去ると上空はるか彼方に白い一本筋の煙、いや軌跡が見えた。

 それが一本。いや数本。十本百本千本と増え始めると、途中で一気に方向を変えて一目散にこちらへと向かってくる。

「だ、弾道ミサイル!?」

『フハハッ、これが避けられるかグライダーごときに!?』




 メイド長は諦めた様子で肩の対衝撃携行シールドを展開し、お嬢様の前に立ちはだかった。

「お嬢様、しばしの時間我慢していただく事をお許しください」

「うん、分かったわ」

 召使いたちが慌てて塹壕を掘りはじめる。

 村長も慌てて逃げ出す。



 前畑選手は泳いでいた!



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