第17話 暗い洞窟の中でもぼくらが空を飛んでいく理由、の巻

 カスティヨッサは丘の上に立っていた。

 主の日焼けを気にするメイド長が傘を差し出すも、その労力はおろか気遣いに対しても一切なんの礼もせず、ただ黙って受け入れる。

 カスティヨッサにとって世界は、自分に対してよく気を使うのが当たり前だと、そういうのが彼女の中での世界の認識だった。

 なぜかって。お嬢様だから。

 黙っていたってカスティヨッサは苦労する事を知らないし、苦労するといえばせいぜい自分が蒔いたとんでもの種を、使用人たちが自分の思い通りに回収できなくて怒る事くらい。

 その使用人の中に、ジャンたちもいつの間にか混ざっていた。それからその長い時間の変節と共に色々あったけれど、まあ、今も彼女にとってジャンは良き召使いとか、男友達の一人とか二人とかであることに違いはなかった。

 もちろんその「友達」の熟語の前には「大事な」の言葉がつくが、その点に関しては彼女はおそらく絶対に認めないだろう。

 なぜって、お嬢様だから。

「いつジャンくんは着くのかしら?」

「もうまもなくだと思われます、お嬢様」

 執事が女装しただけのようなメイド長が懐中時計を取りだして、ふたたび不安そうに空の彼方を見つめる。

 レースはすでに後半に入っている。誰も予想しなかったトラブルもすでに多く起きており、このままでは無事ゴールに到着できるかどうかだけでも大変なことだ。

 勝ち機種投票権払い戻し所前では、すでに棄権が確定した選手に賭けていたらしい観客たちがチケットを投げて嘆きの声を上げていた。

 もっとも、このレースに波乱のトラブルを突っ込んで遠くから愉しんでいる当事者はこのカスティヨッサお嬢様だが。

「執事のフランソワも遅いわねえ。何やってるのかしらあのノロマ」

「お嬢様、そのような下品な言葉、シャハラン家の家の者の言うべきことではございません」

「あらそう? あ、誰か来たみたいよ!」

 遠目に、大会の観客の一旦が声を上げはじめる。管制塔からは大会滑走路を監視する地上員が双眼鏡を覗いて何か遠くを見つめていた。

「誰かしら。ジャンくんか、ベスパちゃんか、それとも執事のアブラハムか。それ以外だったら容赦しないわよーっ」

 カスティヨッサは勝ち気に微笑むと、風にたなびくスカートの裾をひらめかせながら腕を組んで、自信たっぷりにでーんと仁王立ち。

 ということで本大会一位の座は、ジャンかベスパか執事ということでほぼ強制的に決定づけられた。

 カスティヨッサの自信の根拠は。彼女は、お嬢様なのだ。

 代わりに召使いたちがやきもきしている。さすがに空のレースでの順狂わせは、地上の召使いたちには手を出す事が出来ない!

 そしてさらに残念なのは、今レースの最先頭集団トップを飛んでいる(走っている)選手は、現段階ではゼッケン七番のイワトビペンギンだった。

 ちなみに二位は魔女。裂けてボロボロになった衣装に箒を担いで全力で走っている。

 二位と三位の差もほとんどなく、うちわを捨てたただのフンドシ男が。ほぼ並んでインド人も走っている。

 そこへスーたちグライダー組の影が差し込む!

 召使いたちはそわそわしていた。

 村長も、話の先が分からずそわそわしていた。

 ジャンのシルフィードはただ一点、機首に着いている毛糸の指す方めがけて飛んでいた。

 いや墜落していた。垂直降下? いやキリモミ?

 飛んでいるという言葉はこの姿勢には合わない。とにかく、シルフィードはるつぼの乱流に飲み込まれて巨大な空洞の中に、墜落しつつあった。

「くそっ舵が利かない!」

 竜の火炎に翼をやられたのか、それともケーブルが切れたのか、ベレロポーンの突然の助けにも応える事もできずにシルフィードは落ちていく。

 そして気が付くと、ジャンはシルフィードの翼と共に穴の内側に広がる静かな洞窟を飛んでいた。

 縦穴の洞窟に突入する寸前にエアブレーキをフルに展開して機速を落とし、姿勢を整えるべくラダーを駆使してひらりと旋回する。

 縦穴の大きさは優に数キロは超えており、こんな巨大な洞窟がこの谷間にあったなんてとジャンは思ったのだった。

「水だ……」

 洞窟は地下水の侵食でできた物。まだ下層部にはいくつかの地下湖が広がっている。その湖畔にはなんとかシルフィードを不時着させられるほどのスペースがあった。

 ジャンはちらりと空を見あげる。

「もうこんなに空が遠いや。光りも見えないし、諦めて着陸して救援を待つかなー」

 そう言ってジャンが操縦桿を引いて、機首を湖畔の着陸スペースへと向けた。

 機首前方の毛糸の指針は、まだまっすぐこの先を示していた。

「自分は何で空なんか飛んでたんだろう。ちぇっ、ただの自己満足かな」

 自問自答するように、自然といろいろな愚痴や暴言、自分に対するなさけさなとか、足りないことが口から出てくる。

 洞窟内側は本当に静かだった。地下湖面にはいろいろな魚が泳いでおり、珍しい空からの侵入者ジャンとシルフィードを見て驚いて逃げている。

 光りはある。ただ、遠いだけだ。

 というよりもどこかと水路で繋がっているんだろう。

「なーんで飛んじゃったのかなあ。それもこれも、みーんな……」

 と、ここまで情けない愚痴や独り言がジャンの口を突いて出て行って、底が見え始めたときにふと、ジャンは自然に涙が滲み出てきた。

 情けなさとか、自分の虚勢とか、弱みを隠すために敢えて強がっていたこととか、それら全てが本当に、本当に全部無意味だった事とか。そういうのも全部知っていたのに、知らない振りして勝手に一人でやってきた事が、過去もろもろの事が今まさに跳ね返ってきていて、頭の中でぐるぐる廻ってジャンは、情けなくて泣きたくなっていた。

 けれどそのとき、なんでだろう、カスティヨッサとか、ベスパとか、スーとか他のみんなが言ってたそれぞれ勝手な言葉が頭をよぎり、どうしようもなくてうなだれる。

 自分は飛べるのだろうか。地下湖に着水すると、すっと大きなシルフィードの翼の影が湖に映る。

 横目に見て、自分のぼやけた変な顔が映った。

 まだ飛びたいのか?

 という、またどこかの変な天使みたいなのが頭の中で囁いてくれる。

 俺に破滅しろとでも言うのか。ジャンは、何が何だか分からなくなってきた。

「いったい誰のために?」

 約束を果たすために。

 誰との約束? それは、後付の、空しい、無意味な空想なのでは?

 毛糸の方位指示器はすでに動きを止めている。けれど、毛糸はまだ前を指し示していた。

 ジャンの顔が、徐々に変化していく。いや湖面にうつる情けないジャンの顔が、少しずつ、化け物の顔になっていった。

 いや化け物なんかじゃない。

「魚!?」

 地下湖の主。名前もない、巨大な化け物が姿を現す。

永い時の間、この光りも差し込まない巨大な洞窟にひっそりと隠れて棲んでいたのだろう。

 日にも焼けた事のない透き通るような真っ白な肌。同じく真っ白で血管まで見えている巨大なヒレ。目を閉じて、耳も塞いで、外敵から身を守る鱗もなく、それでいて醜い地下の魚。

 ジャンのシルフィードの周りを静かに泳ぎだした。

 餌を食べるためか。それとも、様子を見ているのか。

 まだ飛びたいのか? 飛んでどうする?

 地下の湖に着水したジャンは応えられず、もがきもせずにただ黙って地下の魚を見つめていた。

 おそらく後付の理由以外に、答えなんて無かったんだろうと思う。

 地下の巨大な魚は口を開けると、何者をも捕らえて離さない牙とともに、地下の水とジャンのシルフィードを飲み込んで、食べて、地下深くにまた潜っていった。

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